伊豆大神/走り湯大神と富士大神の関係!?

不動明王と弁才天、千眼大菩薩と習合・混淆する神とは?

雲に浮かぶ富士山

古くから伊豆・箱根・富士山には一つの大きな信仰圏が有ったと思われ、火山崇拝信仰や船乗り達の山神・海神・風雨神・雷神・太陽神・月神・星神、自然の恵みを与える農耕神等の奉斎信仰圏ではと思われるのである。

海に於いて、熱海沖合いの初島や伊豆沖、更に遠く紀伊半島や内・外房総から遠く富士山を望み、通過して行く船は伊豆・箱根・富士山周辺域が一つの文化・信仰圏として見ていた。
信仰では安全な航行を祈願するもので、遠州灘、伊豆半島先端と伊豆七島全域、相模灘、房総半島先端、鹿島灘は、太平洋岸を航海する者にとって難所中の難所であった。

山に於いて、古代から伊豆・箱根を境にして未開の地や鬼の住む危険な世界(鬼門・裏鬼門の地、坂東)と見られており、山越えも険しく大変に危険であった為、通行に重要な場所には安全の祈願として、更に関所的な役割として寺社を配していた。

古代伊豆國の島々には壱岐・対馬からの甲骨・亀甲卜占の神祇官と巫女を多く配していたが、その仕事の内容が謎として未だに語り継がれているのだ。

島嶼に多く配置された神祇官や巫女達は伊豆七島・伊豆・箱根・富士山の噴火や地震、大地の鼓動を聞いていたのだろうか?
伊豆山神社記には初島の巫女神であった津木華香初木比売は毎月の始めに伊豆山の久志良山に住まいしたと伝わる。

かぐや姫、福徳大弁財天女(千眼大天女=天照太神幸魂)、浅間大菩薩、不動明王(→大日如来)
千眼(せんげん)は読めて、浅間(せんげん)と無理して読んでいる。しかし、浅間は本来あさまとしか読めないけど・・・?
古代、あさま(当て字=浅間)と云う語源は火山の山を現わすものとして使っていた。

千眼(せんげん)とは
伊豆走湯山の祭神の垂迹とみなされて、
東明山廣大圓満大菩薩走湯大権現】の宣旨を受けている。
廣大圓満大菩薩の引用は「十一面千手観音」、「千手千眼(せんげん)観音」「十一面千手千眼観音」から来ており、伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』の文字廣大圓滿を当てている。

伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』[がぼんだつまやく せんじゅせんげんかんぜおんぼさつこうだいえんまんむぎだいひしんだらにきょう] 唐西天竺沙門の伽梵達摩

594年推古2年 二行の勅額「東明山廣大圓満大菩薩 走湯大権現」これによって菩薩号と神号の宣旨を添えて賜る。
(伊豆山略縁起) 故に伊豆國神階帳の「正一位千眼大菩薩」とは伊豆山神社(伊豆権現)の事を言う。

遍照大権現遍照とは大日如来の音写では摩訶毘廬遮那如来(まかびるしゃなにょらい)と言い、毘廬遮那は偏り無く光り輝く太陽を意味しますので、遍照如来とも言う事から遍照大権現の名称を付与されています。

伊豆山神社には、伊豆権現、伊豆御宮、伊豆の御子社、伊豆神社、走湯(走り湯)権現、走井明神、走井権現、走り(井)権現・明神、八竜・八龍明神・権現・社・神社、伊豆熊野権現・熊野伊豆権現・伊豆熊野御子社、光の宮等の呼び方や云い方があります。それには理由があって、比定する複数の神、神仏で言われる垂迹と本地での法体・俗体・女体等複雑な解釈、祀られる多種な神と全国末社(現在まで判ったのは150社余り)の複雑さ、多くの官位が下されていて、他の神社には見られない事が起きているのです。

正一位勲二等関東総鎮護 伊豆國伊豆御宮伊豆大権現(総称)〔式外社〕

東明山廣大圓満大菩薩走湯大権現(正一位千眼大菩薩)〔式外社〕
走湯山雷電大権現(正一位天満天神)〔式外社〕
遍照大権現(一品当きさき宮)〔式外社〕
六所王子社(正五位上)〔式外社〕

東北伝説 遠野物語の里から ようこそ風琳堂ホームページへ
千時千一夜 ──瀬織津姫&円空情報館 の文中から抜粋させて頂きました。(掲載確認済み)

275   富士山の地主神 風琳堂主人 Mail Link 2005/12/25 14:42

『富士山文化研究』第六号(2005年7月発行)に竹谷靭負さんが「古伝の『富士山縁起』に見る富士山祭神の諸相」という興味深い論文を書いています。

同論文によりますと、富士山祭神がかぐや姫から木花開耶姫命とされたのは林羅山の提唱によるものとのことです。

羅山は江戸初期の朱子学者ですから、富士山神を木花開耶姫とみなす説はやはり江戸期からということになりそうです。

また、竹谷論文でさらに興味深いのは、富士山の地主神として不動明王の存在を明かしていることです。

■不動明王という富士山神

九世紀中葉、朝廷が富士山の噴火を鎮火させるために祭祀した浅間(あさま)大神に先行して、修験者による守護神・不動明王が存在していた。したがって、浅間(あさま)大神の影向により、不動明王は富士山の地主神となった。

九世紀中葉(正確には仁寿三年=853年)、朝廷によって富士山に浅間(あさま)大神がまつられた、つまり、それまでの不動明王(正確には倶利伽羅不動明王…不動明王の変化身で龍王の一種)は浅間(あさま)大神に主神の座を譲って「富士山の地主神」とみられるようになったということなのでしょう。

では、不動明王は最初から富士山神かどうかといえば、むろん不動明王の前にこそ本来の富士山神がいたと考えるべきですが、竹谷論文はそこにふれているわけではありません。

ただし、富士山神が不動明王と習合・混淆する神であったということだけは伝わってきます。

ところで、富士山の本地仏は時代が下ると(中世)、大日如来とされます。不動明王がなぜ大日如来となるかということは大きな問題ですが、これは不動明王とはなにかということでもあります。

竹谷論文に不動明王の定義が明快に書かれています。

■不動明王とはなにか

 不動明王は、梵名アチャラ・ナータ(不動尊)といい、シヴァ神の異名である。不動尊は、「不動」の語意からも明らかな通り、動かないもの、つまり山の本尊である。山岳修験において、修験者が主尊とするのは、その故である。

仏教、特に密教に入って後は、不動明王は、大日如来が一切の悪魔・煩悩を降伏させるために化身した使者、つまり大日如来の教えを実行する姿である教令輪身[きょうりょうりんじん]であり、憤怒の中に慈悲を表わす憤怒尊である。

密教の考え方からいえば、不動明王は大日如来の「化身した使者」で、つまり変化身です。不動尊が「一切の悪魔・煩悩を降伏させる」「憤怒尊」であるとしますと、これを神道的に解釈するなら、大日如来の「荒魂」が不動明王ということになります。

大日如来の垂迹神は天照大神ですが、ここで竹谷さんはもっともな疑問を書きつけています。

■なぜ浅間大菩薩か

なぜ富士山に限って、大日如来は浅間大菩薩として顕現するのだろうか。

大日如来と天照大神は、太陽神信仰の視点から見ると同根と見なせることから、大日如来の垂迹神は天照大神と考えるのが自然である。なぜ、それが浅間大菩薩として垂迹するのだろうか?

また、浅間大神[あさまのおおかみ]から浅間大菩薩[せんげんだいぼさつ]へと発想されたことは、大方が首肯するところであろうが、それでは、なぜ、「浅間」を「あさま」から「せんげん」と読み変えたのであろうか。

ここでは、疑問点が二つ提出されています。

一つは、富士山神は天照大神ではなくなぜ浅間大菩薩なのかということ、もう一つは、浅間の「あさま」はなぜ「せんげん」といわれるようになったのかということです。

富士山縁起を語る古伝に「冨士山頂上大日如来略縁起」「富士山略縁起」ほかがあるそうで、これらには、次のような一文が記されているとのことです。

■弁天と習合する富士山神

此山(富士山)の大神浅間[せんげん]大菩薩と申奉は即[すなはち]天照太神[てんしやうだいじん]の幸魂[さきみたま]にして本御名[もとつみな]は千眼大天女[あさまおふあまおとめ]と申す。

天の頂に住給ふ福徳大弁財天女にておはします。

竹谷さんは「富士山も日本六弁財天のひとつに数えられる」と指摘していましたが(『和漢三才図会』による)、ここで興味深いのは「天照太神の幸魂」「千眼大天女」の存在です。

この「千眼」を「せんげん」ではなく「あさま」と訓じていることについて、竹谷さんは、伊豆山の本地仏は千眼大菩薩(千手千眼観音)であることから、富士山と伊豆山(走湯山)修験の関係を読み取っています。

■「あさま→せんげん」の変容過程

千眼[せんげん]を千眼[あさま]と振り仮名を付けることは、漢字そのものからは成立し得ない。

ここには、走湯山の千眼[せんげん]大菩薩を介在させて、解釈する以外に不可能である。

換言すると、浅間大神が女神として、千眼[せんげん]大菩薩を移植して、千眼[あさま]大天女に変容し、さらに千眼[せんげん]大菩薩と変容した。

形式化すると、浅間[あさま]大神→(走湯山の千眼[せんげん]大菩薩→)千眼[あさま]大天女→(走湯山の千眼[せんげん]大菩薩→)浅間[せんげん]大菩薩、となった。

富士山の村山修験に影響を与えた走湯山修験が読み取れる論考です。

また、富士山神が「千眼大天女」や「福徳大弁財天女」の異名を伝えていることでいえば、日本における弁才天をまつる発祥地とされるのは九州の背振山で、同山の祭神は宗像三女神とされるように、弁財天(弁才天)と習合する神としては宗像神(市杵島姫)が浮かびます。

遠野郷においては早池峰山の滝神かつ不動尊と習合する神として瀬織津姫という神名が頻出してきます。

遠野の西隣の東和町には明治期まで不動尊を主尊とする丹内権現(明治期に丹内山神社となる)があります。

同社は本殿背後のアラハバキ岩を神体としていることで知られる古社ですが、同社の由緒を読んでみます。

■丹内山神社について

この神社の創建年代は、約千二百年前、上古地方開拓の祖神多邇知比古を祭神として祀っており、承和年間(八三四〜八四七)に空海の弟子(日弘)が不動尊像を安置し、「大聖寺不動丹内大権現」と称し、以来、神仏混淆による尊崇をうけ、平安後期は平泉の藤原氏、中世は安俵小原氏、近世は盛岡南部氏の郷社として厚く加護されてきたと伝えられる。

さらに、明治初めの廃仏毀釈により丹内山神社と称し現在に至っている。(丹内山神社境内案内)

丹内権現は不動尊であり、本殿(明治期までは本堂)背後のアラハバキ岩(「御神体」)については、次のように書かれています。

■アラハバキ大神の巨石(胎内石)

千三百年以前から当神社霊域の御神体として古から大切に祀られている。
地域の信仰の地として栄えた当社は、坂上田村麿、藤原一族、物部氏、安俵小原氏、南部藩主等の崇敬が厚く、領域の中心的祈願所であった。安産、受験、就職、家内安全、交通安全、商売繁昌等の他、壁面に触れぬようにくぐりぬけると大願成就がなされ、又触れた場合でも合格が叶えられると伝えられている巨岩である。(丹内山神社境内案内)

明治期に丹内山神社の祭神が「多邇知比古」とされたときの創建年代は「約千二百年前」と書かれていましたが、アラハバキ岩の説明では「千三百年以前から」と、百年の時間差がさりげなく記されています。

田村麻呂の東北遠征がちょうど「約千二百年前」にあたりますが、その前のアラハバキの神に対する信仰が当社の始まりだということなのでしょう。

おそらくこのことに関わるはずですが、前者の由緒には登場していなかった崇敬氏族として「物部氏」の名があるということは注意しておいてよいかとおもいます。

なお、不動尊と習合する丹内山の神については、遠野の民俗学者である伊能嘉矩によって、貴重な古老伝が紹介されていました。

■丹内山大神の出現

当社の大神は地祇なり。同郡(和賀郡)東晴山邑滝沢の滝に出現す。赤子にして猿ヶ石川を徒渉し、岸上の峻山に這ひ登り、其の巓の円石を秉[と]りて誓つて曰く、「当に今此石を以て礫に擲[な]げ、其の落ち止まる地を以て我が宮地と為すべし」と。

則ち礫に擲ぐ其の石現地に落ち止まる。因りて万代の領地と定め、該石を以て神璽と為して後世に伝ふ。

然るに蒙昧の世、其の祭式を伝へず、惟り奇物あり天然の小石数十今に境内に存す。

按に大神円石を愛し、以て神璽と為す。故に神愛を追慕して奉納を為す所か。近世に至る此の例あり。其の這ひ登る山を赤児這[アカゴバヒ]山と謂ふ。今赤這と謂ふは訛れるなり。郷民其の巓を小峻森[チヨンコモリ]と称して之を敬ふ。(「谷内権現縁起古老伝」…伊能嘉矩『遠野のくさぐさ』)

丹内山大神は、「同郡(和賀郡)東晴山邑滝沢の滝に出現す」とあります。

同地には不動滝があり、ここの滝神として瀬織津姫の名が現在も伝えられています。

近江雅和『記紀解体』によれば、神宮第一別宮の荒祭宮の神は「アラハバキ姫」とも伝えられるとのことですが、この荒祭宮の神が瀬織津姫であることは、神宮(外宮)側の文献『倭姫命世記』がよく伝えています。

もっとも、神宮では現在、荒祭宮の神は「天照座皇大御神荒御魂」と表示し、瀬織津姫の名を伏せることで瀬織津姫と神宮の関係を曖昧にしていますが、しかし、たとえば、神宮の直系の分社である山口大神宮(山口市滝町)の荒祭宮の祭神は現在も瀬織津姫命と表示しています。

ちなみに、荒祭宮と、高宮(外宮の別宮とされる多賀宮)は、かつては、現在の荒祭宮の地で並祭されていたものです。

山口大神宮は高宮神を伊吹戸主命と表示していて、大祓祝詞(中臣祓)に登場するこれら二神が神宮元社の神々であったことは、神宮史ばかりでなく、日本の祭祀史の上からみても重要な意味をもっています。

それはともかく、丹内山神社境内には早池峰山遙拝石もあり、早池峰神=瀬織津姫は、丹内山のこの不動信仰から早池峰山の不動信仰へと、つまり早池峰山周辺の滝神として伝播した可能性が高いです。

早池峰─遠野郷においては、明治期の神仏分離によって不動尊の背後から出現してきたのが瀬織津姫でした。

また、遠野郷の来内地区にまつられる伊豆(走湯)権現も瀬織津姫を背後に隠していました。

瀬織津姫を伊豆山(走湯山)の神として公的に伝えているのは遠野郷のみですが(神官の口伝では、宮城県に複数社あります)、走湯山修験のルーツは熊野(那智)であり、これは、那智がその本地仏を千手観音としていることにもみてとることができます。

千手とか千眼といわれる像容は一見異様ですが、これは十一面観音の衆生済度の功徳の大なることを表現したもので、十一面観音の変化観音として千手千眼観音(菩薩)はあります。

さらにいえば、十一面観音にしても、聖(正)観音の変化観音です。このことは白山の本地仏が十一面観音とされるも、白山の地主神(別山神)の本地仏が聖観音とされていることにみることができます。

早池峰山は白山同様、その本地仏は十一面観音とされます。

瀬織津姫は早池峰山において、十一面観音とも不動尊とも習合するというように一見奇異な印象を受けますが、これは、早池峰山祭祀に関わる円仁伝承にみられるように、天台系の中央的祭祀思想が関与したときは十一面観音、また丹内権現=不動尊を空海の弟子(日弘)がまつったというように、真言系の祭祀思想が介入したときは不動尊がまつられたということなのでしょう。

天台、真言という国家仏教が成立するのは平安期に入ってからのことですが、修験思想のルーツはいうまでもなく役小角に代表される吉野・熊野にあります。

瀬織津姫は、熊野那智においては「川中の神供、瀬織津姫ノ神を祭る」というように、熊野修験の内部では当然に識知されていた神です。

また「滝本河中三膳」なる祭典は別名「日天秘法」「弁才天供養」「竜神祭」といわれ、この祭りは「夏中水に不自由せぬ水神に御礼の行事。また水や滝に感謝し敬う大事な祭典」とされます(『熊野市史』)。

熊野那智の水神(川神・滝神)として瀬織津姫はありました。

この神が那智の滝神である事例は複数ありますが、たとえば、岩手県の気仙川沿いの数社の滝神社、なかでも那智の四十八滝にちなむ、その名も四十八滝神社(陸前高田市横田町)の祭神として瀬織津姫の名があります。

また、熊野三山の地方への勧請として、「美濃の高賀山、瓢[ふくべ]ヶ岳にわたって六社巡りがあり、これに新宮、本宮、滝神社のあること」と紹介されるように(五来重「熊野三山の歴史と信仰」、『吉野・熊野信仰の研究』名著出版)、この美濃の滝神社の祭神も瀬織津姫です。

神宮側は瀬織津姫を「皇太神宮ノ荒魂」(天照大神荒魂)とか「八十禍津日神」などと貶める異称を与えていましたが(『倭姫命世記』)、熊野→伊豆の修験者は、走湯神と富士山神を同神とみなし、それを「天照太神幸魂」「千眼大天女」と呼称したようです。

「荒魂」を「幸魂」と言い換えた心意には、修験者の守護神たる不動明王の背後の神に対する尊意があり、それが「荒魂」の貶称を認めなかったものとみられます。

なお、中世から近世初期にかけて、浅間大菩薩の「応化示現」(竹谷靭負前掲論文)したものとして、かぐや姫の名が富士山神として登場してきます。

かぐや姫の物語が秘めている朝廷権力への批評精神はとても興味深いものがありますが、そもそもかぐや姫は月の女神であるという設定についてのみふれますと、ここにも瀬織津姫との共通要素を指摘することができます。

いったい月神をまつる氏族はなにかといいますと、それは八幡神社の本社である宇佐神宮(宇佐八幡)の宇佐氏を挙げないわけにいきません。同社大宮司家の末裔・宇佐公康さんは『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』(木耳社)において、次のように自家の伝承を披瀝していることは貴重です。

■宇佐神は月神

ウサ神はウサギ神であるが、古代日本人は、氏族の名称を動物や土地の呼び名になぞらえて、氏族の由緒や職業を表示していたから、菟狹族の天職とするアマツコヨミ(天津暦)、すなわち、月の満ち欠けや、昼夜の別を目安として、月日を数えたりするツキヨミ(月読)やヒジリ(日知・聖)、または、天候や季節のうつり変わりを見定めるコヨミ(暦)の知能によって、肉眼で見る満月面には、濃淡の模様があり、この遠くて手に取って見ることのできない模様が、あたかもウサギに見立てられるところから、月をウサギ神として崇拝し、そのツキヨミ(月読)の天職をもって、菟狹族と称するようになった。

したがって、菟狹族の神はウサ神、すなわち、月神である。

記紀がアマテラスの誕生神話を創作したときにセットで記されていた月読神とはまったく異質な月神像が記されています。また、同書には、日本書紀(一書第三)が三女神降臨の地と記すところの「宇佐嶋」の神について、次のように記されています。

■宇佐氏の祖神

宇佐嶋の旧跡地と伝えられる御許山[おもとやま](大本山[おおもとさん]または馬城峰[まきのみね]とも呼ばれている)の頂上に、太古から菟狹氏族の氏上(族長)によって祀られていた比売大神(三女神または天三降神[あめのみくだりのかみ]・宇佐明神ともいう)を勧請した。

この祭神は間違いなく宇佐家の母系祖神であって、菟狹津媛命の神霊と同神である。

菟狹=宇佐氏の神は比売大神であり、この神は月神であるというのが宇佐家の伝承です。この比売大神は宇佐神宮の現在の社殿でいえば二之御殿にまつられています。

宇佐公康さんは同書で、「中央の二之御殿の祭祀だけが、天地順逆の理による順理すなわち正道にかない、一之御殿と三之御殿の祭祀は逆理すなわち邪道」だと明言しています。

現在の一之御殿の応神天皇の祭祀、三之御殿の神功皇后の祭祀は「邪道」であると、宇佐大宮司家の末裔が断言していることは勇気ある証言というべきです。

日本書紀の記述に基づいて、宇佐嶋の比売大神は宗像三女神と同神とされるわけですが、八幡比売大神を瀬織津姫と伝える「鎌田家文書」(福島県古殿町)の存在は貴重です。

あるいは、宇佐家側の伝承に沿って述べるなら、同社の比売大神(三女神)を分祠したのが厳島神社だということを挙げておきます。

宇佐家伝承では、この三女神は厳島神と一体とされます。この厳島神社の分社が鹿児島県出水市にあり、同社祭神に瀬織津姫の名を確認できます。

宗像神社、宇佐神宮については別にふれる必要がありますが、瀬織津姫は宇佐神でもあったとみられます。

瀬織津姫という神が「月神」であった可能性について補足しておきますと、伊勢に伝わる天白神の神楽歌にある、次のような歌詞を挙げることができます(瀬織津姫は天白神でもあります)。

■月の輪に舞う天白神

天はく御前のあそひ(遊)をは
ほし(星)の次第の神なれは
月のわ(輪)にこそまひ(舞)たまへ

天白御前=天白神が月の輪に舞っている姿はまさに月の天女のイメージで、かぐや姫という月神の原像といってよいかとおもいます。

この天白神が「胸形三女神」とみられていた四日市日永の天白社の伝承も故なきことではないとなりましょう(千時千一夜103「天白神の神楽歌」)。

富士山の天女伝承についていえば、「貞観十七年十一月五日に、吏民旧きに仍つて祭りを致す、日午に加つて天甚美く晴る。

仰いて山峯を観るに、白衣の美女二人有つて、山の巓の上に双ひ舞ふ」という都良香「富士山記」の記述も想起されるところです。富士山頂で天女が舞っているという伝承は平安期にまでさかのぼるようです。

この富士山頂の神は「天の頂に住給ふ福徳大弁財天女にておはします」とされます。

また、熊野那智滝本の行事が「弁才天供養」と異称されていたように、この弁才天との習合についていえば、京都の下鴨神社では瀬織津姫が「糺[ただす]の弁天さん」といわれていることもありますが、なによりも、宗像三女神の一神とされる湍津[たぎつ]姫が瀬織津姫と異称されること(前述の鹿児島県出水市の厳島神社、紀州熊野本宮境内社摂社の滝姫社ほか)にみられるように、瀬織津姫は宗像神でもあります。

弁才天はもともとサラスヴァティというインドの聖なる川の水神・川神ですから、その質の類似において、日本の水神(宗像神)とたやすく習合したことが考えられます。

ちなみに、「宗像三女神の原初的祭祀の一つは、タギリ・タギツが水辺の水の湍[たぎ]る様を言ひ現してゐること」、「(宗像)祭祀の原初形態が、海島祭祀或は海神(水神)祭祀であったこと」と『宗像神社史』が自ら述べるように、宗像神は原初的神格として水神の性格をもっていました。

かぐや姫、福徳大弁財天女(千眼大天女=天照太神幸魂)、浅間大菩薩、不動明王(→大日如来)と、富士山の「祭神の諸相」には、日本の神祇史上最後の秘神といってよい瀬織津姫という水神・滝神(あるいは伊勢の地主神)が、それぞれ濃厚に影を落としているとはいえそうです。

伊豆の国奇譚バーナー
熱海の海底遺跡保存会PROTECS JAPAN  Hidenori Kunitsugu