異説・愚説 伊豆国奇譚 | ||||
「伊豆国と大化改新(乙巳の変)を考える200年」記録次第で随時追加します。 | ||||
伊豆国を中心に大化改新に関する記録が有る場合は追加して行きます。 |
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西暦 | 天皇名 | 文献 | ||
武烈8 | 12月 武烈天皇、没。18歳(誕生:(仁賢)2(489))。第25代天皇。 | |||
507 | 継体1 | 2月 武烈天皇の次の王が決まらなかったが、ついに北陸を基盤とする男大迹(おほど)王を | ||
擁立する。第26代の継体天皇である。継体天皇はすぐには大和に入らず、宮を転々と営ん | ||||
で大和に入る。天皇家の系列はここで不連続になっているとの説が有力。 | ||||
514 | 継体8 | この年、新羅で智證麻立于の嫡子の泰が第22代の法興王となる。 | ||
520 | 継体14 | この年、新羅が律令を定め、官位制を整理する。 | ||
継体15 | 11月[百済の(武寧王)21年11月]この月、王が梁に使臣を遣わして国書を送り、百済が強国になった | |||
ことを記して地位を評価するよう要望する。 | ||||
525 | 継体19 | この年、百済で武寧王陵が築造される。 | ||
継体21 | 3月[梁の普通8年3月10日]梁の武帝(63)が、初めて「捨身の行」を行う。 | |||
4月 継体天皇、没。43歳(誕生:(顕宗)1(485))。[古事記による]第26代天皇。 | ||||
この年、新羅が仏教を公認する。 | ||||
継体22 | 4月[北魏の武泰1年4月13日]爾朱栄(35)が、霊太后が実子の孝明帝を殺したとの口実で、河陰で | |||
皇族と官僚を大量に殺害する。 | ||||
529 | 継体23 | 10月[百済の(聖王)7年10月]この月、高句麗の安蔵王が自ら精鋭を率いて百済の北辺を攻める。 | ||
聖王は敗れる。 | ||||
継体25 | 2月 継体天皇、没。82歳(誕生:(允恭)39(450))。第27代天皇、安閑天皇が即位する。 | |||
(日本書紀による) | ||||
4月[梁の中大通3年4月9日]昭明太子(Zao-ming-tai-zi)(蕭統)没。30歳(誕生:0501)。文学者と | ||||
して知られる梁の皇太子。 | ||||
535 | 安閑1 | 12月 この月、武蔵国造笠原直使主と同族の小杵(おさ)とが武蔵国造の地位を巡って争う。 | ||
12月 安閑天皇、没。70歳(誕生:(雄略)10(466))。第27代天皇。 | ||||
宣化1 | 12月 第28代天皇、宣化天皇が即位する。 | |||
宣化4 | この年春、百済の聖王が王都を錦江の中流の泗ビ(サンズイに比)に移す。国号を南扶餘と変える。 | |||
539 | 宣化5 | 2月 宣化天皇、没。73歳(誕生:(雄略)11(467))。第28代天皇。 | ||
12月 第29代天皇、欽明天皇が即位する。 | ||||
欽明5 | 2月[新羅の(真興王)5年2月]この月、新羅の王都に興輪寺が竣成される。新羅の仏教化 | |||
545 | 欽明6 | この年、新羅が「国史」を編纂する。 | ||
550 | 欽明11 | 5月[北斉の天保1年5月12日]東魏の実力者の高洋(21)が、東魏の皇帝から禅譲を受けて文宣帝 | ||
となり、北斉を建国する。 | ||||
欽明11 | 天下天変と大疫により人民死亡 伊豆、駿河、武蔵の国に於いて臨時の祭祀を行う。 | 略縁起 | ||
和泉国茅沼(ちぬ)の海中に雷聲の如く光り日輪の如き物あり。長さ九尋の楠木にて二区の神像を作る。 | 略縁起 | |||
伊豆山は権現神像 吉野の光像という。 木屑より根を生じた楠木山を「楠山」と号す。 | 略縁起 | |||
この時、勅額を給う。「東明寺」 | 略縁起 | |||
欽明12 | この頃、新羅が朝鮮半島中央部に進出する。 | |||
552 | 欣明13 | 欽明天皇13年3月8日、走湯権現の第二祖木生仙人死亡。木生仙人は伊豆山の樵人(きこり)の新磯郡太 | 略縁起 | |
が切った大木の内の神窟にて霊鏡の教えを感得し仙人となる。(走湯山縁起) | ||||
欣明15 | この年、百済の聖王が50人足らずの精鋭と歩兵で新羅の狗川に侵入し、戦死する。 | |||
欣明18 | 10月[陳の永定1年10月10日]侯景の乱などで乱れた梁で、武将の陳覇先(54)が梁の敬帝(15)から | |||
禅譲を受けて陳朝を建国する。 | ||||
562 | 欣明23 | この年、新羅が大伽耶を滅ぼし、加羅諸国を収める。 | ||
欣明27 | この年、新羅で皇龍寺が建立される。 | |||
570 | 欣明31 | 3月 蘇我稲目、没。大臣。 | ||
欣明32 | 4月 欽明天皇、没。63歳(誕生:(継体)3(509))。第29代天皇。 | |||
敏達1 | 4月 欽明天皇の第2子の訳語田皇子が即位する(第30代天皇、敏達(びだつ)天皇)。 | |||
敏達4 | 8月13日 金地仙人 第三祖となる。 | 略縁起 | ||
576 | 敏達5 | 3月 敏達天皇が豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、後の推古天皇)を皇后に立てる。 | ||
敏達5 | 高麗国霊光王烏羽の表文を受けるが、文字読めず。宣旨を受けて権現に祈り、烏羽の文字を読む。 | 略縁起 | ||
581 | 敏達10 | [陳の太建13年2月14日]北周で政治の実権を握っていた楊堅が、北周皇帝から禅譲を受けて | ||
文帝となり隋を建国する。 | ||||
585 | 敏達14 | 2月 蘇我馬子が病にかかる。 | ||
3月 物部守屋が仏像・仏舎利等を焼き打ちする。 日本への仏教伝来 | ||||
8月 敏達天皇、没。48歳(誕生:(宣化)4(538))。第30代天皇。 | ||||
9月 欽明天皇の第4子橘豊日皇子が即位する(第31代天皇、用明天皇)。 | ||||
586 | 用明1 | この年、高句麗の第25代平原王が長安城に都を移す。 | ||
用明2 | 4月 用明天皇、没。48歳(誕生:(欽明)1(540))。第31代天皇。 | |||
8月 欽明天皇の第12子の泊瀬部皇子が即位する(第32代天皇、崇峻天皇)。 | ||||
仏像の捨てられた池は難波池(難波の堀江)と言い、仏像は長野の本田善光に拾われる。 | ||||
本田善光が池の前に来ると,金色の姿を現し,善光こそ百済の聖明王の生まれ変わりであると | ||||
告げる。善光はこの仏像を背負い信濃にもどり自宅に祀った。これは善光寺の創建に関わる話 | ||||
である。(長野善光寺由来) | ||||
天皇への逆臣物部守屋追討の祈祷を走湯権現に行う。(走湯山縁起) | 略縁起 | |||
587 | 崇峻 | 崇峻1 | 蘇我馬子が物部守屋を討滅。厩戸皇子、守屋討伐軍に参加し、四天王寺を発願 | |
崇峻2 | 1月[陳の禎明3年1月12日][隋の開皇9年1月12日]中国、隋が江南の王朝、陳を滅ぼし、天下を | |||
統一する。隋の軍隊が陳の首都建康(南京)に迫ると最後の皇帝後主はふたりの妃とともに井戸に | ||||
隠れるが見つかって隋の都に連行される。 | ||||
590 | 崇峻3 | 崇峻天皇の第3皇子の蜂子皇子(はちこのおうじ)が出羽の羽黒山を開く。 | ||
592 | 崇峻5 | 崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺される。即日陵に葬られる。 | ||
12月 額田部皇女が豊浦宮(とゆらのみや)で即位し推古天皇となる | ||||
593 | 推古 | 推古1 | 4月 厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)摂政として国政に参画。仏教を奉じ、走湯山を崇敬す。 | 略縁起 |
594 | 推古2 | 聖徳太子は益田邦輝を宣使として走湯権現に祈祷さす。(走湯山縁起) | 略縁起 | |
この時、千手千眼大悲の尊像を神鏡に見るとす。 | 略縁起 | |||
二行の勅額 「東明山廣大圓満大菩薩 走湯大権現」これによって菩薩号と神号の宣旨を添えて賜る。 | 略縁起 | |||
推古天皇の頃、走湯権現の神号を賜る。「伊豆国伊豆御宮走湯大権現」 | ||||
推古3 | 太子の師、高句麗僧慧慈が渡来 | |||
596 | 推古4 | 年内 飛鳥寺建立終了する | ||
600 | 推古8 | 2月 新羅と任那(みまな)が戦う(倭国は任那を救援に出兵) | ||
年内 第1回遣隋使を派遣する | ||||
601 | 推古9 | 2月 聖徳太子が斑鳩宮(いかるが)を建立する | ||
602 | 推古10 | 2月 来目(くめ)皇子が将軍となって新羅征討出兵を病の為、中止する。 | ||
603 | 推古11 | 10月 小墾田宮(おはりだのみや)に遷都する | ||
12月 聖徳太子が冠位十二階を制定する | ||||
聖徳太子の渡来系の側近、秦造河勝(はたのみやつこかわかつ)が、氏寺蜂岡(はちのおか)寺 | ||||
(広隆寺)を建立する。 | ||||
聖徳太子が、新羅より献ぜられた弥勒像1体を秦河勝に授ける。 | ||||
604 | 推古12 | 4月 聖徳太子が憲法十七条を制定する | ||
12月 初めて暦を用いる。 | ||||
605 | 推古13 | 4月 推古天皇が鞍作鳥(くらつくりのとり)に飛鳥大仏(丈六の金銅仏)を造らせる | ||
606 | 推古14 | 4月 飛鳥大仏(丈六の金銅仏)を飛鳥寺金堂に納める | ||
607 | 推古15 | 7月 第2回遣隋使として小野妹子を隋に派遣する | ||
遣隋使として小野妹子らを隋に送る(600以来第2次の遣隋使)。ところが、使者が提出した国書にあった | ||||
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」ということばに隋の煬帝(ようだい)が怒り、二度と奏上 | ||||
してはならぬと言われてしまう。だが、実際には隋は強硬な態度にでることはできなかった。 | ||||
年内 法隆寺完成する | ||||
608 | 推古16 | 4月 小野妹子が裴世清(はいせいせい)らと帰国する | ||
9月 第3回遣隋使として小野妹子が高向玄理(たかむこのくろまろ)・南淵請安 | ||||
(みなみぶちのしょうあん)らと再度隋に行く | ||||
609 | 推古17 | 9月 遣隋使小野妹子らが帰国 | ||
610 | 推古18 | 1月 第4回遣隋使を派遣 | ||
10月 新羅・任那の使節が都に入り、蘇我馬子らが朝廷に迎える。 | ||||
611 | 推古19 | 1月 聖徳太子が三経義疎のひとつ「勝鬘経義疎(しょうまんきょうぎしょ)」を著す | ||
5月 聖徳太子が菟田野で薬猟を催す。 | ||||
613 | 推古21 | 9月 聖徳太子が三経義疎のひとつ「維摩経義疎(ゆいまきょうぎしょ)」を著す | ||
11月 大和と難波とを結ぶ道ができる。 | ||||
614 | 推古22 | 6月 最後の遣隋使として犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを隋に派遣 | ||
8月 蘇我馬子の病気平癒を願って男女千人出家する | ||||
615 | 推古23 | 4月 聖徳太子が三経義疎のひとつ「法華経義疎」を著す | ||
9月 犬上御田鍬らが帰国する | ||||
618 | 推古26 | 5月 隋が滅んで唐が建国される | ||
620 | 推古28 | 年内 「天皇記」「国記」が聖徳太子・蘇我馬子らによってつくられる | ||
622 | 推古30 | 2月 聖徳太子が没する(49歳) | ||
2月 聖徳太子妃 橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が天寿国曼陀羅繍帳をつくる | ||||
2月 膳部菩岐岐美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が伝染病のため没。 | ||||
623 | 推古31 | 3月 法隆寺金堂釈迦三尊像を鞍作鳥につくらせる | ||
626 | 推古34 | 5月 蘇我馬子(伝76歳)が没する | ||
蘇我蝦夷が大臣となる | ||||
628 | 推古36 | 3月 推古天皇が没する(75歳)−厚葬禁止 | ||
4月 唐が中国を統一する | ||||
629 | 舒明 | 舒明1 | 1月 田村皇子が舒明天皇として即位する | |
630 | 舒明2 | 1月 舒明天皇が宝皇女を皇后とする | ||
8月 第1回遣唐使として犬上御田鍬らを唐に派遣する | ||||
10月 舒明天皇が岡本宮に遷都する | ||||
631 | 舒明3 | 3月 百済の義慈王の王子豊璋が人質として来日する | ||
9月 舒明天皇が有馬温泉へでかける | ||||
632 | 舒明4 | 10月 犬上御田鍬らが帰国する | ||
633 | 舒明5 | 1月 唐の使節の高表仁らが帰国する。以後20年間唐との交渉がとだえる。 | ||
635 | 舒明7 | 6月 百済の使節が朝貢する。 | ||
636 | 舒明8 | 6月 岡本宮が火災にあい,田中宮へ遷都する | ||
7月 敏達天皇の皇子大派(おおまた)王が官吏の勤務時間を定め、蘇我蝦夷に原則を守るように | ||||
勧告する。しかし蘇我蝦夷はこれを黙殺して退出する。 | ||||
637 | 舒明9 | 年内 蘇我蝦夷が反乱,上毛野形名(かみつけねのかたな)を将軍として出兵させる | ||
639 | 舒明11 | 7月 百済宮・百済大寺の建立が始まる | ||
12月 舒明天皇が伊予温泉へでかける | ||||
12月 百済大寺に九重塔が建つ | ||||
640 | 舒明12 | 4月 厩坂宮に遷都する | ||
10月 学生の高向玄理・学問僧の南淵請安らが唐より帰国する | ||||
641 | 舒明13 | 年内 蘇我倉山田石川麻呂が山田寺建立を始める | ||
舒明天皇が没する | ||||
642 | 皇極 | 皇極1 | 1月 宝皇女が皇極天皇として即位する | |
蘇我入鹿国政を執る | ||||
8月 天皇が南淵の河上に行き雨を祈る。 | ||||
12月 小墾田宮に移る | ||||
643 | 皇極2 | 4月 飛鳥板蓋宮に遷都する | ||
6月 太宰府が高句麗使の来着と高句麗のクーデターの報を伝える。 | ||||
11月 蘇我入鹿が山背大兄王を襲撃,王は斑鳩寺で自害する | ||||
644 | 皇極3 | 7月 富士川流域で「常世の虫」信仰が広まるが秦河勝(はたのかわかつ)が鎮める | ||
11月 蘇我蝦夷・蘇我入鹿が甘樫丘に家を建てる | ||||
645 | 孝徳 | 大化1 | 6月 乙巳の変(中大兄皇子が蘇我氏を討つ) | |
大化の改新 伊豆国は消滅、駿河国に統合される。 | ||||
「天皇記」「国記」が焼失する | ||||
皇極天皇の弟軽皇子が孝徳天皇となり中大兄皇子が皇太子となる(大化改新が始まる) | ||||
9月 吉野で出家した古人大兄王を謀反の罪で討つ | ||||
12月 孝徳天皇が難波長柄豊碕宮に遷都する | ||||
646 | 大化2 | 1月 改新の詔を発布する | ||
3月 薄葬令を出す | ||||
9月 高向玄理を新羅に派遣する | ||||
647 | 大化3 | 1月 高麗、新羅が朝貢する。 | ||
4月 公地公民とする | ||||
10月 天皇有馬温湯に行幸する | ||||
年内 高向玄理が帰国する | ||||
七色十三階の冠位を制定する | ||||
648 | 大化4 | 2月 三韓に学問僧を派遣する。 | ||
4月 古冠をやめる。 | ||||
649 | 大化5 | 2月 冠位十九階とし,八省・百官とする | ||
3月 蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いをかけられ自害する | ||||
5月 使を新羅に派遣する。 | ||||
650 | 大化6 | 2月 穴戸(長門)国司が白いキジ、白雉(はくち)を献上する。「白鳳文化」の夜明け。 | ||
白雉 | 白雉1 | 2月 白いキジの献上を記念して元号を「白雉」とする。 | ||
651 | 白雉2 | 12月 天皇が難波長柄豊碕宮に移る | ||
12月 味経(あじふ)宮で2100余人の僧尼に一切経を読誦させる。 | ||||
652 | 白雉3 | 4月 戸籍をつくり50戸を里とする | ||
4月 僧恵隠を内裏に招いて無量寿経を説かせる。 | ||||
9月 難波長柄豊碕宮が完成する | ||||
653 | 白雉4 | 5月 吉士長丹が遣唐大使として入唐する(第2回遣唐使)。 | ||
7月 第2回遣唐使船の1隻が薩摩沖で沈没する | ||||
年内 中大兄皇子が皇極上皇・大海人皇子・天皇妃で皇子の妹間人皇子を伴って | ||||
飛鳥河辺行宮に移る | ||||
白雉4 | 10月2日走湯権現第三祖、金地仙人死亡。(三仙人の塚が現在、日金山にて確認さる) | 略縁起 | ||
654 | 白雉5 | 1月 中臣鎌足に紫冠を授ける | ||
正月 諸州幼鼠生じ、五穀の災害。緋田鳥丸、勅使として攘災の祈祷を走湯権現に行う。(走湯山縁起) | 略縁起 | |||
白雉5 | 群鼠伏匿す。神徳に賽して「正一位勲二等」の爵位を賜る。 | 略縁起 | ||
10月 孝徳天皇が難波宮で没する | ||||
655 | 斉明 | 斉明1 | 1月 皇極上皇が斉明天皇として飛鳥板蓋宮で即位する | |
年内 飛鳥板蓋宮が焼失し,飛鳥川原宮に移る | ||||
656 | 斉明2 | 年内 後飛鳥岡本宮に移るが宮が焼失する | ||
両槻宮・吉野宮を造る | ||||
運河(「狂心の渠」とよばれる)を造る | ||||
宮の東の山に石垣を造る | ||||
657 | 斉明3 | 7月 飛鳥寺の西でタイの使節を招いて盂蘭盆会(うらぼんえ)がおこなわれる | ||
9月 有馬皇子が狂人をよそおい,紀伊の牟婁温泉で療養する | ||||
658 | 斉明4 | 4月 阿倍比羅夫が船師180隻を率いて秋田の蝦夷を討つ | ||
7月 200人余りの蝦夷が飛鳥に来朝する | ||||
10月 斉明天皇が紀温湯に出かける | ||||
11月 孝徳天皇の子有馬皇子が謀反の疑いで捕えられ紀伊藤白坂で処刑される | ||||
659 | 斉明5 | 3月 阿倍比羅夫が蝦夷を討つ | ||
7月 蝦夷を連れた坂合部連石布(さかいべのむらじいわしき)らを第4回遣唐使として派遣する | ||||
伊吉連博徳の乗った遣唐使の船が難波の津を出発する。 | ||||
9月 伊吉連博徳の乗った遣唐使の船が百済の南のほとりの島につく。 | ||||
9月 伊吉連博徳の乗った遣唐使の船が揚子江河口に近い越州の会稽県につく。 | ||||
660 | 斉明6 | 5月 中大兄皇子が漏刻(ろうこく−水時計)をつくる | ||
7月 百済が唐・新羅に滅ぼされる | ||||
10月 百済将軍鬼室福信(きしつふくしん)が救援の使者を送ってくる | ||||
12月 斉明天皇が百済救援に出るため難波宮に移る | ||||
661 | 斉明7 | 1月 斉明天皇が出発する | ||
伊予熟田津の石湯行宮に着く | ||||
3月 筑紫の娜大津(博多港)に着く | ||||
5月 天皇が朝倉橘広庭宮に移る | ||||
7月 斉明天皇が朝倉宮で没し(68歳),中大兄皇子が政治をとる(称制) | ||||
8月 阿倍比羅夫と阿曇比羅夫を百済救援の将軍とする | ||||
9月 百済の王子豊璋を送る | ||||
662 | 天智1 | 1月 百済の将軍鬼室福信に兵器・衣料・食糧を送る。 | ||
5月 阿曇比羅夫が170隻の船で出兵,豊璋を百済に送る | ||||
百済の王子豊璋を百済の王とする | ||||
663 | 天智 | 天智2 | 3月 上毛野稚子ら兵27000人が新羅へ出兵する | |
6月 百済の王子豊璋が将軍鬼室福信を殺害する | ||||
8月 白村江で唐・新羅連合軍と戦い大敗する | ||||
百済の王子豊璋が高句麗に逃亡する | ||||
9月 日本軍が百済の難民とともに帰国する | ||||
664 | 天智3 | 2月 26の冠位を制定する(甲子の改革令) | ||
5月 唐の百済鎮将の劉仁願が使者を日本に送り筑紫に到着する。朝廷は入京を拒否する。 | ||||
年内 対馬,壱岐,筑紫に防人(さきもり)狼煙(のろし)を置き,太宰府防衛のための水城を築く | ||||
665 | 天智4 | 2月 百済の男女400余人を近江に置く | ||
8月 筑紫の大野,基山,長門に城を築く | ||||
9月 唐使の劉徳高らが来日し、入京を許される。 | ||||
年内 坂合部連石積(さかいべのむらじいわつみ)らを第5回遣唐使として派遣する | ||||
666 | 天智5 | 年内 百済の男女2000余人を東国に置く 大磯から平塚辺り(高来郡) | ||
10月 高麗が朝貢する。 | ||||
この年秋、大水のため租調を免除する。 | ||||
667 | 天智6 | 3月 近江大津宮に遷都する | ||
11月 大和高安城・讃岐屋島城・対馬金田城を築く | ||||
668 | 天智7 | 1月 中大兄皇子が即位し天智天皇となる | ||
近江に崇福寺を建てる | ||||
2月 倭姫王を皇后とする | ||||
大海人皇子を皇太弟とする | ||||
5月 天智天皇らが蒲生野で薬猟をおこなう | ||||
大海人皇子が長槍を床に突き刺し天皇激怒するが中臣鎌足がおさめる | ||||
10月 唐・新羅軍が高句麗を滅ぼす | ||||
年内 近江令が完成する | ||||
669 | 天智8 | 10月 中臣鎌足に大織冠・大臣が授けられ藤原姓となる | ||
藤原鎌足が没する | ||||
年内 第6回遣唐使を派遣する | ||||
百済の男女700余人を近江蒲生郡に置く | ||||
670 | 天智9 | 2月 庚午年籍をつくる | ||
4月 法隆寺が焼失する | ||||
7月 この月、呪術行者の役小角(えんのおづぬ)が大峯を出立して出羽の羽黒に来て月山・ | ||||
湯殿山・鳥海山を経由して大和に帰る。 | ||||
671 | 天智10 | 1月 大友皇子が太政大臣となる。 冠位・法度のことを施行する。 | ||
3月 黄書本実(きぶみのほんじつ)が水はかりを献上する。 | ||||
4月 琵琶湖岸の新しい内裏の一角で、漏刻(水時計)を使って初めて鐘鼓を打って時を知らせる。 | ||||
10月 病に倒れた天智天皇を見舞った弟大海人皇子が突然衆目の見守る中で髪を剃り出家する。 | ||||
10月 大海人皇子が出家し仏道に専念すると称して吉野へ行く | ||||
12月 天智天皇が大津宮で没する | ||||
この年、呪術行者の役小角(えんのおづぬ)が金峯山に蔵王権現を祀る。 | ||||
672 | 弘文1 | 6月 大海人皇子が吉野を脱出し壬申の乱が起こる。 | ||
7月 大海人皇子軍が大友皇子軍を大和と近江瀬田で破る | ||||
弘文天皇(大友皇子)が自害する(25歳) | ||||
8月 近江軍の将軍らを処刑する | ||||
9月 大海人皇子が飛鳥嶋宮,岡本宮に入る | ||||
後 飛鳥浄御原宮を造る | ||||
673 | 天武 | 天武1 | 2月 大海人皇子が即位し天武天皇となる | |
大海人皇子が鵜野皇女を皇后とする | ||||
4月 大伯皇女を泊瀬の斎宮に置く | ||||
5月 人材登用の詔が出る。 | ||||
7月 不破関を置く | ||||
12月 百済大寺を大官大寺と改める | ||||
674 | 天武2 | 3月 対馬の国司が銀を献上する(国内産の銀の初め)。 | ||
675 | 天武3 | 1月 天武天皇が、天文を観察し、吉凶を占うために日本初の占星台を建設する。 | ||
2月 部曲(かきべ)が廃止され、親王以下に与えられた山林などが取上げられる。 | ||||
4月 牛・馬・犬・鶏の肉を食べることが禁じられる。 | ||||
676 | 天武4 | 10月 神に新穀をささげる相嘗(あいなめ)祭が初めて行われる。 | ||
677 | 天武5 | 1月 国司任命制度を制定する | ||
4月 畿外の豪族や才能ある百姓への任官の道を開く | ||||
9月 浮浪人に、本貫地と浮浪地の両方で調と労役を課す。 | ||||
678 | 天武6 | 10月 文武官人の位階昇進制度を定める | ||
年内 十市皇女が自殺する | ||||
679 | 天武7 | 5月 天武天皇らが皇后や6皇子らと吉野へ行幸する(679年の吉野の誓い) | ||
8月 諸氏から女人を献上させる。 | ||||
11月 竜田山,大坂山に関を置く | ||||
680 | 天武8 | 4月 国の官寺を定める | ||
11月 天武天皇が、皇后の病気回復を祈願して薬師寺を建立する | ||||
681 | 天武9 | 2月 飛鳥浄御原令の編纂を開始する | ||
天武天皇が皇位継承の争いを防ぐため皇子たちに誓い(679年の吉野の誓い)をさせた結果 | ||||
草壁皇子が皇太子となり、政務を執る。 | ||||
伊豆國再建国 | ||||
→→→ | 伊豆國の復帰645年〜681年(36年間の伊豆國封鎖が解かれるが、伊豆走湯山への政治的弾圧であった) | |||
駿河国より伊豆国が分離し、田方・那賀・賀茂の三郡が置おかれ、熱海(阿多美)付近は | ||||
田方郡に属す。(扶桑略記) | ||||
海上にて噴火、7日から8日の間轟音と稲光と大爆発? (和銅3年の事か?) | ||||
682 | 天武10 | 3月 境部石積(さかいべのいわつみ)らに「新字(にいな)」1部44巻を作らせる。 | ||
683 | 天武11 | 2月 大津皇子が政治に参画する | ||
3月 僧上・僧都・律師を任命し、僧尼を統率させる。 | ||||
7月 隼人が来朝する | ||||
684 | 天武12 | 7月 ハレー彗星が出現する(日本書紀による)。 | ||
4月 銅銭を用いることとし,銀銭を禁じた | ||||
10月 土佐その他南海・東海・西海地方に地震が起こる。マグニチュード8.25、山崩れ、津波。 | ||||
死傷者多数がでる。 | ||||
685 | 天武13 | 9月 天武天皇が重陽の宴を催す。 | ||
10月 八色の姓を定める(684年) | ||||
11月 朝臣姓を大三輪君ら52氏に与える。 | ||||
12月 宿禰姓を大伴連ら50氏に与える。 | ||||
天武14 | 1月 冠位48階を改める | |||
1月 難波宮焼失する | ||||
7月 前々年以前の負債の利息の徴収を禁止する。 | ||||
9月 伊勢神宮式年遷宮制を定める | ||||
686 | 朱鳥1 | |||
9月 天武天皇が没し,皇后が政治を執る(称制) | ||||
9月 天武天皇の喪が始る。大津皇子の謀反が発覚し、大津皇子他30人余が逮捕される。 | ||||
10月 大津皇子が謀反の罪で捕らえられる。 | ||||
10月 大津皇子が謀反の罪で自害させられる(24歳) | ||||
687 | 持統1 | 前々年以前の負債の利息の徴収を禁止する。 | ||
9月 新羅が朝貢する。 | ||||
10月 皇太子,大内陵を造る。 | ||||
688 | 持統2 | 11月 天武天皇が檜隅大内陵に葬られる。 | ||
6月 この年の調を半減する。 | ||||
689 | 持統3 | 1月 鵜野讃良(うののささら)皇女(45)が、正当な皇位継承を訴えるためにが吉野へ行幸する。 | ||
4月 草壁皇子が病没する(28歳) | ||||
6月 草壁皇子の遺志、飛鳥浄御原令が完成する。 律令国家の基礎が固まる。 | ||||
690 | 持統 | 持統4 | 1月 鵜野讃良皇女が即位し持統天皇となる。 | |
7月 飛鳥浄御原令の官制を施行する。高市皇子を太政大臣に任命するほか、八省百官の役人を | ||||
選任する。 | ||||
9月 庚寅年籍(こういんねんじゃく)がつくられる。 | ||||
持統5 | 3月 戸籍をつくるために、良民・賎民の区別を定める。 | |||
4月 奴婢の制が定められる。 | ||||
10月 皇室の墓守である陵戸(みささぎのべ)の制を定める。 | ||||
持統6 | 2月 持統天皇が伊勢に行幸する計画を発表する。 | |||
3月 持統天皇が伊勢への旅に出発する。 | ||||
3月 持統天皇が伊勢から帰京する。 | ||||
持統7 | 1月 農民に黄衣を、奴婢に黒衣を着させる。 | |||
3月 諸国に桑、紵、梨、粟、蕪菁を植えて五穀を助けさせる。 | ||||
694 | 持統8 | 7月 巡察使を諸国に派遣する。 | ||
12月 藤原宮(奈良県橿原市)に遷都する | ||||
695 | 持統9 | 3月 新羅の王子の金良琳(こんろうりん)が朝貢する。 | ||
9月 新羅に小野毛野(おののけの)らを派遣する | ||||
696 | 持統10 | 7月 高市皇子が没する(43歳)天武天皇の子で太政大臣。長屋王らの父 | ||
持統11 | 7月 造営中の薬師寺で仏像の開眼供養が行われる。 | |||
697 | 文武 | 文武1 | 8月 持統天皇が譲位し,孫の軽皇子が文武天皇として即位する。持統天皇は太上天皇となり政務 | |
を執る。 | ||||
698 | 文武2 | 8月 藤原姓を不比等に限ることとし、他は中臣姓に戻す。 | ||
10月 薬師寺が完成する | ||||
699 | 文武3 | 5月 修験道の開祖役の行者小角弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の讒言に | ||
より伊豆大島に流され、11月走湯源泉に渡り、草庵を造り修験道の道場として日本中に | ||||
走湯の効能を広める。走湯山第四祖とす。(役の小角)(大日本史) | 略縁起 | |||
文武4 | 3月道昭和尚が座禅のまま没72歳(誕生:(舒明)1(629))我が国初の火葬にする。玄奘三蔵に師事。 | |||
6月 刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らに律令を選定させる(大宝律令)。 | ||||
文武5 | 2月 大和、孔子を祀る釈奠(せきてん)を初めて行う。 | |||
大宝1 | 3月 対馬が金を献上したので、「大寶」「大宝」と建元する。 | |||
701 | 8月 大宝律令が完成する | |||
702 | 大宝2 | 2月 大宝律令が出される | ||
3月 日本初の度量衡が実施される。 | ||||
6月 粟田真人,山上憶良,僧道慈らを第7回遣唐使として派遣する | ||||
12月 持統太上天皇が没する(58歳)女帝。我が国初の天皇の火葬となる。 | ||||
大宝3 | 7月 庚午年籍(こうごねんじゃく)を戸籍の原簿と定める。 | |||
異説・愚説 伊豆国奇譚 國次 秀紀 07'.5.09. | ||||
略縁起=伊豆山略縁起 | ||||