厳重注意 ここに書かれているものは正式な調査によって発表されたものでは有りません。個人として、國次 秀紀独自の調査推理の上に書かれた物です。故に参考にする方はご注意をお願い致します。
走湯山・伊豆山を地形から考察する!
初木姫の出自の謎と伊豆山・走湯山
初木姫の月初め月次参詞(仕)は伊豆暦の奉納?
初島から富士山を直線で結ぶライン上に日金山が有り、船の航海に於いて山たての中心的な霊峰富士山が重要な意味を持っている。
しかし、大島を経て初島を過ぎ、阿多美へ向かうと途中から富士山が見えなくなる。
この時に代わって山たての指針と成るのが岩戸山(天岩戸、松岳)である。
青い線は初島から富士山 赤い線は岩戸山から富士山ピンクの線は阿多美湊の海底の神社から北方向→中の本宮中の本宮から岩戸山の先が富士山を指す。
初島から富士山までの直線距離は凡そ53km。方位 311.84°
二色の磐屋海岸は不動浜 弁財天崎は現在の弁天岩
色々と考察すると、太陽も日金には沈まない事が判った。とすると、日が峰(峯)と言う事は、一定の場所から見た時の夕日を受けて赤く染まった、又は黄金色に染まった山の敬称と思われる。
この様に見える場所は既に海底に沈んでいる集落からの、又その守護鎮守の神社からの景観だったと思われる。
ただし、黄金に輝いて日が沈む様子は黄泉国を表していたと思われる。日金は古来より霊の集まる所とされ、死者の山とされている。これは、天降る地としては不浄の地となり、適切ではない。日金の山は往古より霊山として、黄泉国の出入り口として地蔵信仰を行い、更に黄泉国を表す閻魔大王を祀っている。
周辺の村人達には自分達の一族や先祖達が黄泉国から戻って来るとされる為、信仰の対象も相当に篤かった。だが、神を祀る場所と死霊を祀る場所は元々違わなければ成らない。
日が峰とは夏至を表す言葉だった!?
18年6月1日頃 A図 18年6月21日頃 B図
18年6月30日頃 C図
18年7月20日頃 D図
18年7月31日頃 E図
この図は日没の状態を現してるが、日金が黄金色に輝くのはA図の6月10日過ぎ、 B図〜D図に掛けて輝きだし、輝きを終わるのがE図の辺りである。
これは、夏至から大暑の1ヶ月間に日が峰が黄金色に輝く事を顕し、卜占では大事な要素となる。
夏至(げし)は二十四節気の1つ。6月21日ごろ。およびこの日から小暑までの期間。
太陽黄経が90度のときで、日本の大部分では梅雨のさなか。北半球では一年中で一番昼が長く夜が短い日。五月中。『暦便覧』には「陽熱至極し、また、日の長きのいたりなるを以てなり」と記されている。
春分から秋分までの間、北半球では太陽は真東からやや北寄りの方角から上り、真西からやや北寄りの方角に沈む。夏至の日にはこの日出・日没の方角が最も北寄りになる。また北回帰線上の観測者から見ると、夏至の日の太陽は正午に天頂を通過する。夏至の日には北緯66.6度以北の北極圏全域で白夜となり、南緯66.6度以南の南極圏全域で極夜となる。
また、南半球では昼と夜の長さの関係が北半球と逆転するため、天文学的な夏至とは別に、慣習的に「一年中で一番昼が長く夜が短い日」のことを夏至と呼ぶことがある。すなわち、南半球が慣習的な意味での夏至を迎える日は本来の冬至である。
夏至の日に無花果田楽を食べる風習がある地域もある。
◎24節に見る日没位置関係
(日没位置は8季節だけを記載致しました。初島からどの辺りに太陽が沈むのかが判ります。
【初島から見た24節日没位置図】
初島は初木姫を祀る初木神社から24節の日没を見る。これは、暦作りには欠かせないし、潮の干満までもを調べていた事が判る。更に季節の風を読む事で航海には欠かせ無い物となっていた。初木神社から真西(270°)に見ると網代山近くを指しているが、富士山が方位角度を表すのに重要な中心的役割を果たしている。
初木姫は「伊豆山略縁起」では津木花香初木姫と言い、津木とは対馬の津族・津守氏の関係と見られ亀甲や鹿骨の卜占巫女集団の長であったと思われる。
当初、卜占は壱岐・対馬の独占であり、更に壱岐・対馬より派生した伊豆の卜占も始まる。
この事は、卜占祭祀による会議等で壱岐・対馬・伊豆と言う形で朝廷内へ参祀しており、云うまでも無い。伊豆では、卜占祭祀の巫女集団と言う古い形態を残していたのでは無いだろうか!
尚、この卜占には中臣氏と物部氏が関わり、時として政治的関わりにも関係しているが、ここ初島では鹿島神宮(大社)・中臣氏との関係が鹿島踊り伝承での良い形として伝えられている。更に、箱根の住僧であった万巻上人が鹿島神宮に神宮寺建立の帰り道、伊豆山へ足を運んだ時に遭遇した熱海での噴火・熱湯流出の出来事伝承の時でも鹿島との関わりを語っている。
七十二候(24節を更に3分割した気候)
夏至の期間の七十二候は以下の通り。
初候
乃東枯(ないとう かるる) : 夏枯草が枯れる(日本)
鹿角解(しかの つの おつ) : 鹿が角を落とす(中国
次候
菖蒲華(しょうぶ はなさく) : あやめの花が咲く(日本)
蜩始鳴(せみ はじめて なく) : 蝉が鳴き始める(中国)
末候
半夏生(はんげ しょうず) : 烏柄杓が生える(日本・中国)
さて、走湯山を調べる折に大事な事は楠木である。楠木は神宿る木として古くから重要視され、例えば、大船の建造には不可欠であったのと、楠木は南方系の木であり、九州や四国に多く樹生しているが、伊豆国や安房国(千葉県)では植林されたとする為だ。伊豆山の新宮のある権現山は正に植林の山に相応しい。
楠木、椎木、槻木等では船材として相応しい。ここ権現山には椎木の種類が4〜
5種類と他には見られない植生を持つ。やはり、植林をしていると見る。ただ、走湯山縁起には神像を造った後、楠の木屑を新磯浜に捨てたとある。とすると、楠山とは何処を指すのか・・・限定はされるが疑問が残る。
よって、天降る地は天岩戸と言われる岩戸山(松岳)であり、ここに天之忍穂命を祀り、更に四男神と三女神を松岳の頂上から少し降りた所に祀っている。
七尾七社 東麓に四男神、南麓に三女神を配す。南麗の更に稜線の裾は来宮神社が鎮座している。
高麗より帰って来た白道明神が来明神として祀られた社かも知れないが、定かではない。
(走湯山略縁起より一部引用し、考察)
古来、石神信仰や磐座信仰、山岳信仰等が仏教の伝来によって神仏混交となった事で神の天降る、神あがりの部分と死者の地下への出入りが混同されている様にも受け取れ、ましてや日が峰(日金山)と岩戸山(天岩戸)の混同には不思議さを覚えるのだが、ここに「走湯山秘決」での日精と月精の「あこへの国」で出て来る奉幣と神楽や禊掃い等を月による潮の干満に合わせて行うを考えた時、神后皇后の三韓征伐の折、走湯権現が神威を顕し敵を怖がらせたと有ります。
「怒神」「祟神」「禊神」「掃神」的な表現をしていますが、この様な神威神としての表現に於いては瀬織津姫が良く当てられています。
この事を考える時、天忍穂耳尊ではこの様な荒神の行動について顕さないのです。
日の峰(日金山)を語る時、初島→日が峰→富士山が一直線で表され、死者の黄泉の国への出入り口が有る場所とすると走湯権現と瀬織津姫を語らなければ成らず、更に白山神社に対しても菊理姫神は白山比売神と言われているが、別称瀬織津姫とも言われている。
尚、富士山は祭神を桜神の木花咲耶姫と当てているが伊勢神宮周辺では瀬織津姫を桜神として見ており、不儘(富士)の祭神であるとも言われているし、伊都能売/八十禍津日神/大禍津日神/滝津姫命も充てる事は可能である。
ただし、この中で滝津姫命は宗像三女神であり、松岳(天岩戸)の南麗に祀っている。
福岡県の伊豆神社では天忍穂耳尊と宗像二女神を祀り、この福岡の宗像二女神の中から滝津姫命/多岐都比売命を外していたら面白い構図となると思っていたら、福岡は三社の内の一社に祭神の発見があった。
それは・・・
伊豆神社 福岡県遠賀郡遠賀町大字島津
祭神 彦火々出見命、玉依姫命、伊豆能売、 神直日命、大禍津日命、大直日命 大綾津日神
この様な祭神の見方は比叡山/天台宗の守護神社である日吉大社の走井社にも見られる。
日が峰は日が峰で、夕日が照る峰の意であった。
また、岩戸山/天岩戸(松岳)が久志良山であり、語源の発祥が船乗り達の山たてや自分達の故郷の山である鯨山の景観にそっくりな事であった。
ここ阿多美の大湊は船乗り達の安全を祈願し、安堵感を与える神聖な場所でも有ったのだ。
船乗り達の航海に欠かせない山たての守護山は富士山で、絶対なる第一の宗廟で、第二の宗廟がここ伊豆山の松岳(天岩戸/岩戸山)であった。
では、松岳と言う言葉にも違和感を感ずるが、実は岩戸山には松の大木など生える訳が無く、その麓の中の本宮辺りまでとする。
では、何故に松岳と言ったかだが、船乗り達は、此処阿多美の湊で風待ちや、修理待ちと証してくつろいで居たと思われる。
とすると、「まつだけ、まつだけ」と言いながら滞在していたものと思われるが、明日の天気は日金を見て、明日の海は松岳(岩戸山)次第と・・・。
故に、船乗り達が崇めている祭神は富士山の守護神でもあった桜神の瀬織津姫と見て取れる。
富士山に祀っられている桜神の木花咲耶姫とあるが違っているのでは無いであろうか! この船乗り達の出身地は岩手県下閉伊郡山田町船越周辺の者であった。
更に面白い事が判った !
鯨山/久地良山/久志良山の由来が対馬にあった。
実は其の土地は天照大神の関係地でもあり、伊勢神宮の関係地とも取れる。
神を祀る上で「走湯山縁起」では、第一の宗廟は伊勢大神宮、第二の宗廟は伊豆山と言われている。
伊豆国奇譚 國次 秀紀