伊豆國神階帳 三郡 92座 大5 小87+式外社

式内・式外の官位記入の為の調査中です!

WEB、南豆神祇誌(復刻版)、豆州誌稿(復刻版)、手持ちの資料等を参考としています。私見として、おかしな部分は随時手直して居りますが誤記入や誤字等があり、又記載不的確な部分も有るが故に参考に留める様にお願いを申し上げます。また、長い間に祭神や神社名の変更に伴って何処のどの神社なのか判らないものも相当に多く有り、正確に記載出来ない事がとても残念です。

神社資料として、この他(式内社)に不足している式外社を順に追加する事と致しましたが、時間が掛かります(^_^;)

賀茂郡:46座中(大4 小42)+式外社

伊豆三嶋神社(名神大。月次新甞。) 静岡県三島市大宮町2丁目1-5
三嶋大社「大山祇命、事代主命 配 阿波神、伊古奈比当ス、楊原神」火山列島である伊豆諸島には23座の式内社が登載されている。御島である。祭神は伊豆諸島にかかわる神であったはずだが、鎮座地は富士山をの遥拝地としても絶好であり、大山祇神が祭神とされてきたのであろう。また駿河湾沿岸の漁民達はエビス神信仰を持っており、事代主神も祭神とする説が登場したのであろう。

注)伊豆三島神社としているが賀茂郡に有って名神大及び正一位の官位を頂くのは三島明神[大山祇神]でなければおかしいと思われる。三島明神は最初に三宅島に鎮座し、追って下田の白浜神社内に変遷されたものと思われるが、後に白浜神社近くに祀られていた三島(賀茂系)神社[事代主神]に習合されたと思われる節がある。大化改新後に伊豆國は駿河國に併合された時に旧伊豆國統括府として大仁田京に統括府整備が行われたが、伊豆國の再建国に際し、最も重要とされる東海から相模への道路整備、関所整備として現在の三岐(みしま)の地へ新国府名【三島】と共に遷座させられた節がある。(伊豆山から見た三島として私見が入っています(^_^;))

伊豆三嶋神社由緒書 官位 正一位

祭神 大山祇神・事代主神

大山祇神は山の神様で、山林農産を始めて殖産興業の神、国土開発経営の神である。 事代主神は俗に恵比須様と申して、商工漁業、福徳円満の神である。

由緒
元の官幣大社で、その創建は極めて古く、此の地に鎮座し、神の御名により三島の地名ともなった。延喜の制にはすでに最高の格である明神大に列し、月次・新嘗の官幣に預り、祭料稲二千束を寄せられた。中世以降武士の崇敬が篤く、殊に源頼朝は治承四年八月十七日、御祭礼の夜深く神助を頼み挙兵し、旗挙成功するや、偏に大明神の加護によるものと神領を寄せ、社殿を造営し、神宝を奉り益々崇敬を寄せた。以来武門武将を始め庶民の尊崇をあつめ、三嶋大明神の御名は広く天下に知られるところとなった。

明治四年、最高の社格である官幣大社に列せられたが、戦後官幣の制度は廃された。

例祭
八月十六日を中心に十五、十六、十七日の三日間で大祭と呼んで賑わう。尚この他、年間百十五度の祭典が行われる。


宝物
国宝梅蒔絵手箱(平政子奉納)をはじめ、重文宗忠太刀、重文秋義脇差、重美三嶋本日本書紀、その他頼朝・頼家・尊氏、顕家、宗瑞(早雲)等の古文書、刀剣等多数を蔵す。


社殿・境内
古来幾十度か社殿の造営が行われたが、現在の社殿は嘉永七年十一月四日の東海大地震により倒壊したものを時の神主矢田部式部盛治が十年の歳月と一万六千六百七十七両余の巨費を投じて、慶応二年完成させたものである。その後関東大震災、伊豆震災により、一部修理が行われたものである。境内は、約一万五千坪(五万平米)である。

波布比賣命神社[ハフヒメノミコト] 官位 正五位上 東京都大島町波浮18
波布比命神社[はぶひめのみこと]「波布比当ス 合 建御名方富命、八坂刀賣命」御祭神は「羽分大后」で「三島の神」が大島においたとされる。波浮は崖の意、海に面する火山湖を女神として祀ったものである。

伊賀牟比賣命神社[イカムヒメノミコト]
官位 正五位上東京都三宅村大字伊ヶ谷
后神社[きさき]「伊賀牟比賣神」四后社の一つ。三宅島の先住民が奉斎していた石神が侵入民が自らの神としてその居住地に遷座した。

伊古奈比当ス神社[イコナヒメノミコト](名神大) 官位 一品 きさきの宮 静岡県下田市白浜字白浜2740 
伊古奈比命神社[いこなひめのみこと]「伊古奈比当ス 配 三嶋大明神、見目大神、若宮大神、劍の御子」伊古奈比当スは三嶋大明神の后。白浜神社と呼ばれる。本殿裏は聖地、アオギリの樹林、椿、イブキなどが鬱蒼と茂る。御釜とよばれる巨大な岩の窪みがある。
別称 久伊豆大明神とも言われるが確証無し?  平安・鎌倉期は伊豆走湯山の社地となっていた。

伊古奈比当ス神社由緒書 官位 一品

伊古奈比当ス神社の御祭神の三島大神(別名事代主神)は、その昔(今から二千年以上も昔のことです。)南のほうから海を渡ってこの伊豆にやって来ました。伊豆でも特にこの白浜に着かれたのは、この白砂の浜があまりにも美しかったからです。そして白浜に着いた三島大神は、この伊豆の地主であった富士山の神様に会って伊豆の土地を譲っていただきました。さらに、三島大神は伊豆の土地が狭かったため、お供の見目の神様、若宮の神様、剣の御子と、伊豆の竜神、海神、雷神の助けをかりて、島焼きつまり島造りを始めました。
最初に1日1晩で小さな島をつくりました。初めの島なので初島と名付けました。次に、神々が集まって相談する島神集島(現在の神津島)、次に大きな島の大島、次に海の塩を盛って白くつくった新島、次にお供の見目、若宮、剣の御子の家をつくる島、三宅島、次に三島大神の蔵を置くための御蔵島、次に沖の方に沖の島、次に小さな小島、次に天狗の鼻のような王鼻島、最後に10番目の島、十島(現在の利島)をつくりました。
7日で10の島をつくりあげた三島大神は、その島々に后を置き、子供をつくりました。この后々や子供達は、現在でも伊豆の各島々に式内社として祭られています。三島大神は、后達やその子供達を大変愛していましたが、その中でも伊古奈比・命は特に愛され、いつも三島大神のそばにいました。大神は、三宅島に宮をつくり、しばらくの間三宅島に居ましたが、その後最愛の后である伊古奈比
命とお供の見目、若宮、剣の御子を連れて再び白浜に帰って来ました。そしてこの白浜に大きな社をつくり末長くこの美しい白浜で暮らしました。それが、この伊古奈比命神社です。

佐伎多麻比当ス神社[サキタマヒメノミコト] 東京都三宅村大字神着
御笏神社[おしゃく]「佐伎多麻比当ス」先史時代の石神[しゃくしん]であるとされる。
走湯神社伊豆奈比当ス」合祀 元神着地区に鎮座


伊大氐和氣命神社[イタテワケノミコト] 東京都御蔵島村里
稲根神社[いなね]「五十猛命」 

阿豆佐和氣命神社[アツサワケノミコト] 
東京都利島村1

阿豆佐和氣命神社[あづさわけのみこと]「阿豆佐和氣命」

多祁美加々命神社[タケミカゝノミコト] 東京都新島本村大三山
大三王子神社[だいさんおうじ]「大三王子明神、弟三王子明神」官位 正五位上

第三王子神社
当島開拓の地主神にて、始め能登男山鎮座するを貞享3年現地に転社。享保6年社殿再興。明治8年再建。昭和50年社殿大改修。境内整備。神域広大。石段多数。風光絶佳。参拝者後を絶えない。

物忌奈命神社[モノイミナノミコト](名神大) 東京都神津島村1 
物忌奈命神社[ものいみなのみこと]「物忌奈命」官位 正五位上

物忌奈命神社

今按續日本後紀承和七年九月乙末伊豆ノ国言ス賀茂ノ郡有造作島本名上津島。此島坐阿波神ハ是三島大社本后也。又坐物忌奈命即前社御子神とあるを思うに物忌奈命は三島大社の本后にます阿波当スの御子神とみえたり。
式社考證に古き上梁文に長濱大明神輿奉申御神者當鎮守神集島定大明神御母神也とあるにも明かなるを思うべし。

波夜多麻和氣命神社[ハヤタマワケノミコト] 静岡県下田市相玉字稲生ヶ宿8
波夜多麻和氣命神社[はやたまわけのみこと]「波夜多麻和氣命」官位 従四位上(おほいの明神)

伊波例命神社[イハレノミコト]
官位 従四位上 静岡県賀茂郡南伊豆町長津呂125 
石室神社[いろう]「伊波例命」伊豆半島最南端の石廊崎の目もくらむような断崖上に鎮座。

伊豆奈比当ス神社[イツナヒメノミコト]官位 従四位上 静岡県下田市大賀茂上条495
走湯神社[すとう]「伊豆奈比当ス」伊豆山は走湯神社末社と思われるが呼称が変えられている。これも、廃仏毀釈の影響か!

阿米都(和)氣命神社[アメツワケノミコト] 東京都三宅村阿古字富賀山
富賀神社[とが]「三島大明神(阿米都和氣命)、伊古奈比当ス」伊豆三島神社発祥の地。側火山の噴火神を祀る社であった。祭神は天地分命[あめつわけ]で峰の神格化とされている。

波夜志命神社[ハヤシノミコト]
走湯神社 式内伊豆奈比当ス神社に掲載済み (三宅島神着)
御笏神社に合祀 式内佐伎多麻比当ス神社に掲載済み

優波夷命神社[ウハイノミコト] 東京都八丈町大字大賀郷無番地
優波夷宝明神社[うばいほうめい]「優婆夷神、寶明神」優婆夷神は女神、寶明神は男神。三島大神の[おきの島稲葉]においた后を[イナハエノ后]と言い、これが[ウバイ]と変化した。許志伎命神を宝明神と言う。

片菅命神社[カタスカノミコト] 
東京都三宅村保炭谷
御笏神社に合祀 式内佐伎多麻比当ス神社に掲載済み
カサスゲ神社「?」 東京都三宅村神着美茂井 未確認
后神社境内末社の若宮神社「物忌奈命」

久良惠神社[クラヱ] 
東京都三宅村坪田
二宮神社に合祀「伊波乃比当ス、加袮命」

夜須命神社[ヤスノミコト]
二宮神社に合祀 前掲
嶽比良神社[たきひら]「國柱命」東京都三宅村伊豆字嶽比良山

奈疑知命神社[ナキチノミコト] 
官位 従四位上(なつひめの明神)静岡県賀茂郡河津町縄地1
子安神社「奈疑知命」

加弥命神社[カミノミコト]
御笏神社に合祀 式内佐伎多麻比当ス神社に掲載済み
二宮神社に合祀 式内久良惠神社に掲載済み

弖良命神社[テラノミコト]
山ノ神 静岡県賀茂郡南伊豆町二条字寺ヶ谷 未確認 南伊豆町二條933-1に三島神社「溝咋姫命」はある。
八王子社 静岡県下田市中八王子 未確認
神沢神社[かんざわ]「手間天神」東京都三宅村伊豆字神沢山

許志伎命神社[コシキノゝミコト] 越、胡氏、古志からの転訛か?
優波夷宝明神社 式内優波夷命神社に掲載済み

多祁伊志豆伎命神社[タケイシツキノミコト]
官位 従四位上 
竹麻神社[ちくま]「譽田別命」 静岡県下田市本郷
見高神社[みたか]「多祁伊志豆岐命」静岡県賀茂郡河津町見高字川上624 
姫宮神社「伊波比当ス、事代主命、譽田別命」官位 従四位上 静岡県賀茂郡南伊豆町一色820
三島神社「事代主命」静岡県賀茂郡南伊豆町青野170
筏場湯神社 静岡県賀茂郡河津町筏場 未確認である。

筏場には三島神社「布佐乎宜命」他が鎮座。

久尓都比当ス神社[クニツヒメノミコト]
官位 正五位上 東京都新島本村大字式根島字泊 
泊神社「泊御途口大后明神(久爾都比当ス)、野伏若御子明神」

泊神社

往古より式根島字泊浦に鎮座。貞享4年社殿造営、その後元禄6年、文化10年、嘉 平4年再建、更に明治39年、昭和43年社殿再建、境内整備。 明治45年、野伏若郷明神を合併合祀する。
祭神、泊御途口大后明神(久爾都比当ス)式内社。

伊波乃比当ス神社[イハノヒメノミコト]官位 従四位上
浅間神社[せんげん]「磐長姫尊」静岡県賀茂郡松崎町雲見386の2
二宮神社に合祀 式内久良惠神社に掲載済み

杉桙別命神社[スキホコワケノミコト](現在は来宮神社) 
静岡県賀茂郡河津町田中154
杉桙別命神社[すぎほこわけのみこと]官位 従四位上 「杉桙別命 合 五十猛命、少彦名命、笹原姫」掛川誌稿には祭神は五十猛命とし、一説には伊豆山の地主白道明神ともするが、これは、酒精進の習慣が河津地区には残っていて「走湯山縁起」の白道明神由来の話によるものとされる。

多祁富許都久和氣命神社[タケホコツクワケノミコト]
官位 従四位上 所在不明

伊波久良和氣命神社[イハクラワケノミコト]
官位 従四位上
八幡宮來宮神社「譽田別命、伊波久良和氣命」静岡県伊東市八幡野1

八幡宮來宮神社由緒書

八幡野鎮座、八幡宮来宮神社は、その創建を悠久の昔に発し、以来郷党衆庶の尊崇篤く、稲取村以北九ヶ村の総鎮守として、神威赫々今日に到った古社である。
当神社はその社名が示すように、元来は八幡宮と来宮の二神社であったが延暦年間本殿再建の折、合殿して現在の一殿両扉の形になったと伝えられる。八幡野という地名もまたこれに由来している。
八幡宮は誉田別命即ち応神天皇を祀る。神護景雲三年(769年)太宰の廟官阿曽麻呂が、一国一社と定めて正八幡宮を勧請したときの伊豆国の代表八幡宮である。
応神天皇は、大陸交渉に伴ひて大陸文化を我が国に輸入し、古代にあって日本文化興隆をはかられ、また御母、神功皇后が天皇の御幼少の時、常にお側におかれて行動なされたということからして、文化の神、母子神としての信仰がある。
来宮神社は、伊波久良別命を祀る。古来、来宮大明神と崇められた延喜式神名帳所載の古社であり、産業の振興、開運隆昌の信仰がある。
両社共、明治初年郷社に列格された。憶えば千三百年の遠き昔この小さな村にかくの如き立派な神域を造り、精神文化の基礎を築き、特殊な神事を絶ゆることなく継承し、郷土の繁栄に努力してきた先人の功績を讃え、改めて深き敬意を表したい。

八幡神社「伊波久良別命、菅原道眞」静岡県賀茂郡南伊豆町子浦1000

意波與命神社[オハヨノミコト]
官位 従四位上
浅間神社「木花開耶姫」静岡県下田市本郷851-1

阿米都加多比盗_社[アメツカタヒメノミコト]
官位 従四位上
三島神社「阿米都加多比当ス、譽田別命」静岡県賀茂郡南伊豆町下小野166 

伊波比当ス神社[イハヒメノミコト]
官位 従四位上
姫宮神社「伊波比当ス、事代主命、譽田別命」静岡県賀茂郡南伊豆町一色820

阿波神社[アワ、アハ](名神大)
官位 正五位上
阿波命神社「阿波当ス」東京都神津島村字長浜山

阿波命神社由緒書

阿波当スは三島大社の本后にして神異を顕し、島を造りて其の造れる島に鎮座し給う事は續日本後紀に承和七年九月乙末伊豆國言ス賀茂ノ郡有造作島本名上津島。此島に坐ス阿波神ハ是三島大社本后也。又坐ス物忌奈ノ命ハ即前社ノ御子神也。とみえ三宅記に神津島に置給う后をば長濱の御前とぞ申しけるとあり。古き上梁文に長濱大明神輿奉申御神者當鎮守神集島定大明神御母神也とあるにて明かなるべし。

志理太(乎)宜神社[シリタキ](元来宮神社)
椎取神社[しいとり]「志理太宜命」東京都三宅村神着字南子山 椎取神社 椎取神社
志理太乎宜神社[しりたおぎ]「志理太宜命、五十猛命」静岡県東伊豆町白田

志理太(乎)宜神社(来宮神社)由緒書

創立年代康永2年11月再建の記録あり。
往古は白田来浜神社又は来宮神社とも称した。毎年12月17日より7日間酒精進の習慣がある。

南子神社[ミナミコ]
南子神社 静岡県下田市神子島 未確認
南子神社[なんご]「南子命」祭神は佐岐多麻比当ス(八王子腹御前)の八人の皇子の長子。
東京都三宅村神着大字神着字南子山
御笏神社に合祀 式内佐伎多麻比当ス神社に掲載済み
后神社境内末社の南子宮 東京都三宅村大字伊ヶ谷 南子宮は未確認

阿治古神社[アチコ]
官位 正五位上
大宮神社「天照大神、阿治古命」東京都大島町野増字大宮無番地

伊波氐別命神社[イハテワケノミコト]
官位 従四位上
諏訪神社「伊波氐別命」静岡県賀茂郡南伊豆町岩殿167

穂都佐氣命神社[ホツサケノミコト]
官位 正五位下
王子神社「穗都佐和氣命」静岡県賀茂郡南伊豆町大瀬587

大津徃命神社[オホツノオミコト]
官位 従四位上
三島神社「大津往命、須佐之男命」静岡県賀茂郡南伊豆町妻良828

波治神社[ハチ]
官位 正五位上
波知加麻神社[はちかま]「大廣祇命」東京都大島町泉津字不重250-2

布佐乎宜神社[フサヲキ]
官位 従四位上
三嶋神社「只姫神」静岡県賀茂郡下河津町逆川255

佐々原比当ス神社[サゝハラヒメノミコト]
官位 従四位上
杉桙別命神社に合祀 式内杉桙別命神社に掲載
佐々原比命神社「笹原姫」静岡県賀茂郡河津町笹原

竹麻神社3座[ツクマ]
官位 従四位上
月間神社[つきま]「事代主命 配 天照皇大神」静岡県賀茂郡南伊豆町手石336
竹麻神社[ちくま]「譽田別命」静岡県下田市本郷28
八幡神社「譽田別命」静岡県下田市吉佐美1722
若宮神社「譽田別命」静岡県賀茂郡南伊豆町湊839

加毛神社2座[カモ]
官位 従四位上
加畑賀茂神社[かばたかも]「八重事代主命」大同年間創建。静岡県賀茂郡南伊豆町下賀茂19
三島神社「溝咋姫命」静岡県賀茂郡南伊豆町二条933-1

 

田方郡[タカタ] 24座中(大1 小23) +式外社

荒木神社[アラキ] 官位 従四位上静岡県田方郡韮山町原木1
荒木神社「天津日子根命」中古、鞍掛明神と言ったのは源頼朝が松に鞍を掛けたから。

文梨神社[フムナシ]
官位 従四位上
左内神社「阿米都瀬氣多知命」静岡県三島市中島310-2 
神明神社「天照大神、櫲樟日命、品陀和氣命」静岡県沼津市西浦江梨77

輕野神社[カロノ]
官位 従四位上 静岡県田方郡天城湯ヶ島町松ヶ瀬字神田鍵取免79
軽野神社[かるの]「八重事代主命」狩野明神

倭文神社[シトリ]
官位 従四位上
鍬戸神社[くわと]「倭文神」静岡県三島市長伏字石原1 

高椅神社[タカハシ]
官位 従四位上 静岡県三島市松本字松葉298 
高橋神社「磐鹿六雁命」

長濱神社[ナカハマ] 
官位 従四位上静岡県沼津市長浜字水揚69
長浜神社「阿波当ス」

久豆弥神社[クツミ] 
静岡県伊東市馬場町1丁目16-14 
葛見神社[くずみ]「葛見神、倉稻魂命 合 大山祇命」全国屈指の老樟が、千古の翠を湛えてそびえる。葛見神は事代主、大己貴命、少彦名命ともされる。

久豆弥神社由緒

全国屈指の老樟が、千古の翠を湛えてそびえる、当葛見神社は、千数十年昔の延長五年に制定された「延喜式神名帳」所載の田方郡久豆弥神社に相当するとされる古社であります。往古、伊豆の東北部を葛見の庄と称し、当神社はその庄名を負い、約九百年昔、葛見の庄の初代地頭工藤祐隆公(伊東家次…伊東家の祖で伊東祐親の祖父)が守護神として、社殿を造営し、相殿に京都伏見稲荷を勧請合祀してから、伊東家の厚い崇敬と保護を受け、神威を高めてきました。
このことは、元禄十年(一六九七年)の棟札に、「葛見大社岡村稲荷者藤原朝臣鎌足大臣十六代後胤工藤大夫祐高公之修造也」と記されていたり、慶長十五年(一六一〇年)の棟札に、「藤原氏伊東正世公伊東郷住人鈴木近江守仰而焼失後造立」に書かれていることからも判明いたします。
明治までは、代々の領主より供米が献じられ、また岡明神と称えて、地方民の氏神として信仰されてきました。このような由緒から、明治四年、新制度に依り、旧伊東、小室村の唯一の郷社に列格されました。
近年では、当神社近くに別荘のあった(現ひまわり苑)若槻礼次郎元首相(ロンドン海軍軍縮会議全権)が、しばしば参拝に訪れました。老樟を賛える石碑(樟右手前)は、氏の寄進に依るものです。

石徳高神社[イハトクタカ]官位 従四位上
守山八幡宮「譽田別命、大山祇神、木花開耶姫命」静岡県田方郡韮山町寺家1204-1

石徳高神社由緒掲示板

当社の創建は、大化五年(699年)で御祭神は大山祇神で延喜式内石徳高神社(いわとこたかじんじゃ)である。
延喜七年(907年)源頼義豊前国宇佐より八幡神を勧請して以来伊豆国総社八幡と称す。
治承四年(1180年)源頼朝此所に源家再興を祈願社兵を挙げて山木館に上る火煙を望見すと。
頼朝神威を畏み社殿を造営し心願成就(ねがいごとのかなふ)の社なり。

豆塚神社「石徳高命」初め南江間雄徳山に鎮座。静岡県田方郡伊豆長岡町北江間字町屋1357

伊加麻志神社[イカマシ]
 官位 従四位上 静岡県田方郡修善寺町大字堀切字益山763
伊加麻志神社[いかまし]「事代主命」

廣瀬神社[ヒロセ]
官位 従一位 静岡県田方郡大仁町田京1-1
廣瀬神社「三嶋溝杙姫命」聖武天皇天平五年(七三三年)と伝う。

廣瀬神社由緒書

当社は延喜式神名帳に従一位広瀬明神と有る式内社である。
その創建年月詳らかならずといえども、天平五年(七三三年)と伝う。古来より田中郷五ヶ村の総鎮守で社伝によれば往古社殿は金銀をちりばめ壮大にして禰宜三十六人、供僧六坊を置き、神領八町八反大五十歩永八十貫文を充てられ、隆盛を極めたが天正十八年(一五八九年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、兵火により社殿、宝物源頼朝、北条時政等の社領寄進状も焼失したと慶長元年(一五九六年)及び寛永十年(一六三三年)の棟札に記されている。所領を失いその後、伊豆国全州の勧進を以って再興され、次いで寛文、亨保、明和年間に修営がおこなわれた。慶長元年の上梁文に「福沢大明神」と有り、寛永以降は「深沢明神」と記されている。明治六年八月郷社に列し「深沢神社」と称したが明治二十八年五月十八日、現社号「広瀬神社」に復称し明治三十二年六月県社に列した。
例祭は、旧五ヶ村現田京、御門、白山堂、守木、宗光寺の五区により斎行され神輿渡御、稚児行列、式三番叟等行われ六台の山車引き回しにより勇壮な「深沢ばやし」が奏でられる。
広瀬とは、狩野川、深沢川の合流点にて瀬の広き所と伝う。
境内社 祖霊社(見目社、大楠社、若宮社、厳島社等数多く有ったが全て本殿に合祀)
特殊神事 御田植祭(七月十五日)御神木「大楠」に早苗を投げ上げ枝に留まる苗の多い年は五穀豊穣とされる。
氏子 一千六百戸
境内 二千七百八坪
昭和五十九年「神社振興対策指定神社」神社本庁
昭和六十年「ふるさとの自然百選」静岡県
平成元年「天然記念物」杜 大仁町

小河泉水神社[ヲカハイツミ] 官位 従四位上 静岡県駿東郡清水町湯川字宮脇98-4
小川泉水神社[おがわいずみ]「熊野夫須美之命」

大朝神社[ヲホアサ]
官位 従四位上
大朝神社「大日命」楊原神社と一体の関係にある。静岡県沼津市下香貫字山宮前3056 
大宮神社「大己貴命」大朝は大麻で古来この地は大見、麻続と呼ばれていた。静岡県田方郡中伊豆町上白岩422
駒形神社「天津日高日子穂穂出見命」 安閑天皇元年勧請、海中に駒形岩の奇岩。静岡県榛原郡御前崎町
駒形神社 静岡県田方郡大仁町神島字神益 未確認、神益1307には神益麻志神社[かんますまし]「長白羽命」が鎮座
赤王神社「櫛眞智神 配 大己貴神、少彦名神、日本武尊、大口眞神」静岡県三島市大場883 
鷲頭神社[わしづ]高龗神(たかおかみ) 合 日本武尊、譽田別命、天穗日命」静岡県沼津市大平1824 

玉作水神社[タマツクリミマ]
 静岡県沼津市上香貫黒瀬町1
玉作神社「水波廼女神」官位 従四位上

楊原神社[ヤナキハラ](名神大)
官位 従一位 静岡県沼津市上香貫字宮脇335
楊原神社[やなぎはら]「大山祇命 配 磐長姫命、木花開耶姫命」

楊原神社由緒書

鎮座地 沼津市下香貫宮脇335番地 往古の社地は今の字楊原で、永禄年中北条武田合戦の時兵禍に罹り社殿神宝等悉く焼失、其の後天正18年(1590年)現在の地に遷宮する。祭神は大山祇命、磐長姫命、木花開耶姫命の三座を奉斎する。主神大山祇命(おおやまずみのみこと)は伊邪那岐、伊邪那美命の御子、磐長姫命(いわながひめ)木花開耶姫命(このはなさくやひめみこと)は大山祇命の御子にして左右に配祀、御祭徳は治水産業の神、特に山の神として日本一と奉賛せられております。沿革として創立年月は不詳なれども延喜式神名帳(905年)(第60代醍醐天皇の御代有名神社書上帳)所載にして名神大とあり、大宮大明神、又香貫大明神とも称え、今は大宮様と云う。往古は神領五百石を有し、社家三十余家ありと伝えられ明治八年二月郷社に列す。上香貫、下香貫、我入道の総鎮守の神として崇敬せられている。

加理波夜須多祁比波預命神社[カリハヤスタキヒハヨノミコト]官位 従四位上
日波預天神社[ひばよ]「加理波夜須多祁比波預命 配 菅原道眞」静岡県伊東市宇佐美上生戸432

劔刀乎夜尓命神社[タチヲヤニノミコト] 
静岡県田方郡伊豆長岡町戸沢52-1
剱刀神社[たち]「劔刀乎夜爾命」官位 従四位上

 

火牟須比命神社[ホノムスヒノミコト] 静岡県熱海市伊豆山上野地の1 
伊豆山神社[いずさん]「伊豆山神」孝昭天皇御代、最初日金山(久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺。)に鎮まり、次で本宮山に移り、更に三遷して現在地に鎮座。

注)伊豆山神社は伊豆神社・走湯神社の総本社であるが、政治的に度々の祭神の改窮の為に複雑となっている。火牟須比命神社としているが、明らかに祭神が違う事が「伊豆山略縁起」や、「走湯山縁起」に於いて解かる所であるが、何故か何重にも封印している。大社・大寺ゆえに神隠しがなされて居ると思われる。これは、大化改新前後の伊豆國の遍歴によって消されて居るが、元熱海は伊豆國阿多美としての大港湾都市であり、大化改新以前は阿多美をもって国府としていた可能性がある。近年、熱海の海底に大灯台を有した大港湾施設の発見で阿多美と伊豆山の歴史認識の見直しを図って入る所である。伊豆國伊豆御宮伊豆(走湯)大権現の縁起書の改窮(政治支配と神仏支配)が数百年(奈良・平安時代)も前から行われていたものである。
尚、海底には神社跡が二つ以上有り、一つは火山の火口及びたぎった湯を祀っている。もう一つは、イワクラのある場所で石を積んだモニュメントが鎮座している。祀られているのは太陽と月を現し、正確に東西南北を指し、更に其の真北には伊豆山神社の中の本宮を指している。つまり、海底の神社は相当古い古社であり、太陽と月、そして星を祀って居るものと思われる。詳しくは「熱海の海底遺跡」より見て下さい。

伊豆山神社は伊豆國でも特別な扱いの為、「伊豆国奇譚 伊豆山神社縁起」伊豆山 ・熱海の海底遺跡と走湯山を参照して下さい。
「伊豆山 ・熱海の海底遺跡と走湯山」は「伊豆大権現と走湯大権現の秘めたる謎?」を参照して下さい。

【伊豆神社・伊豆社・走湯神社・走湯社・走り井神社・走井天神・走り明神の総本社です】

伊豆山神社末社関係は全国に現在153(H25.8.10) 全国分布図153社中86社掲載

伊豆山神社略誌 関八州総鎮護  式外の大官位 正一位勲二等伊豆國伊豆御宮伊豆(走湯)大権現  官位 一品 当きさきの宮(当の元は阿提、足代、阿陀、阿多、阿田、阿太として阿多美の姫神を指す)

当社は古来伊豆大権現、又は走湯大権現、伊豆御宮とも走湯社とも称され、略して伊豆山又は走湯山と呼ばれていましたが、明治になって現在の社名に改称されました。御創立の年代は、悠久の昔であって確な記録は残されておりませんが、人皇御五代孝昭天皇の御代と伝え、延喜式神名帳に所載の火牟須比命神社は、当社のこととされております。(:現在では火牟須比命神社では無い事が判明)
社伝によると当社は最初日金山(久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺。)に鎮まり、次で本宮山に移り、更に三遷して現在地に御鎮座になりました。十六代仁徳天皇が勅願所となされてより二十二代清寧、三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、百五代後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、殊に後奈良天皇は御宸筆の心経一巻(昭和二年国宝指定、現重文)を御奉納になられ、国土安穏と万民の和楽を御祈願になられております。大正三年一月十三日、皇太子であられた昭和天皇御参拝の砌り、親しく若松一株御手植えを賜わりました。今、社頭左側に亭々と聳えております。
大正七年に宮内省から基本財産の一部にと、金参万円の御下賜をいただき、又、昭和三年秩父宮家をはじめ、高松、久迩、伏見、山階、賀陽、東伏見の各宮家から金壱封を、梨本宮家からは日本刀一口及び槍一筋、祭祀料の御寄進をいただき、又、昭和五十五年九月十二日に皇太子浩宮徳仁親王殿下の御参拝をいただいております。
平治の乱後、平家の手により伊豆国に配流の身となっていた、源頼朝が源家再興のことを当社に祈願し、後鎌倉に幕府を開くに及んで、篤く当社を崇敬し、箱根と共に二所と称えて、幕府最高の崇敬社として関八州総鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡す限りの外に、鎌倉、室町期を通じて、
一、武州 吉田三ヶ村 野中村 一、相州 柳下郷 小田原寺家方金目庄 一、上州 渕名庄半分 一、豆州 丹那郷 田代郷 大田家村 春木村 蛭島郷 白浜郷 初島領家職熱海松輪村東湯屋 山木郷 山上地 平井薬師堂 馬宮庄領家職 仁科庄内田畠 松下田畠 一、駿州 富士村寺 聖一色 伊賀留美 一、越州 国分寺 右の如くに社勢頗る盛え、多数の社領を各地に所有していたことが、吉野時代の文書「寺領知行地注文」に記されておりますが、その社領範囲の広大であったことは実に驚くべきもので、当社の最隆昌期における状況を示しております。
かくて北条、足利の時代を経て徳川の治下に及んで、家康江戸開府に先立ち、二百石を寄進し、次で慶長になって百石と、併せて三百石の朱印領を寄進して崇敬の誠を至し、歴代の将軍も又これに傚い、明治維新に際して国に上地いたしました。
昭和三年昭和天皇御大典に際して、国幣小社に列格仰出され、官社として御神威いよいよ高くいましたが、終戦後神社制度も廃されて宗教法人として新たに発足し、今日に至っております。
猶当社は明治以前においては、久しく神仏習合の社であって、役小角をはじめ、弘法大師、多くの山嶽仏教徒や修験者が入峰して、修行を積んだ霊場で、後白河院の御撰に成る染塵秘抄に「四方の霊験所は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山。」と著され、東国、東海における第一の霊場として聞こえていたことがしられます。
御神徳 一切の生物の親神として、生命の充実、発展の御守護を土台として、国の護り、産業、事業、経営の護り、良縁の護り、殊に禊道、錬成の御導きの御神威は著しく、火防鎮火、温泉守護の御神徳弥高くまします。
社殿 源頼朝の再興以来、将軍又は領主の寄進により、度々改修されておりますが、現在の社殿は昭和六年より同十一年に亘り、内務省の手によって本殿、拝殿、階殿、神饌所、手水舎、雷電社等の修造、並びに整備が行われました。建物は総朱漆塗、一部極彩色で、細部の彫刻等は見事な出来映えです。
境内社 東鑑に光の宮と記されている摂社雷電社、摂社本宮社、末社白山社、同足立社、同結明神社が鎮座。又、飛地境内社として摂社走湯神社があります。神木梛及び神湯梛の湯 社頭の左右に梛の木があり、この葉を所持すれば願い事必ず叶うといわれ、又、男女の仲を結ぶ外、交通安全、災難除、入学成就の守りとして信仰されております。
梛の湯の源は、社殿横の宝物庫に近く在り、歌人の左左木信綱博士が、神木梛に因んで「梛の湯」と命名されました。御神威によって湧出した神湯で、社務所に引湯し、奉仕者の潔斎に用いております。
宝物 後奈良天皇御宸筆心経一巻(国重文)古剣一口(国重文)八稜鏡各六面(県文)経巻、経塚出土品(県文)神像、古文書等百余点。付近名勝 般若院、興亜観音、走り湯、岩戸山、日金山、十国峠、伝斉藤別当実盛の墓、伊豆山温泉。
参拝順路 JR
熱海駅から伊豆山神社前までバス(伊豆山神社行、又は七尾行)で約七分。駅前バスターミナルから発車、別に伊豆山温泉経由、神社行の循環バスもでています。

伊豆山神社境内摂社の雷電社(光の宮)「火牟須比命荒魂」 式外の大社 官位 正一位 天満天神 静岡県熱海市伊豆山上野地の1
明治の廃仏毀釈後に「火牟須比命荒魂」とするが、本来は
「瓊々杵尊、瓊々杵尊荒御霊」
伊豆山神社は伊豆國でも特別な扱いの為、伊豆国奇譚「熱海の海底遺跡に於ける伊豆山と走湯山を参照して下さい。伊豆山と走湯山の詳しい説明があります。

◎伊豆山神社は古来より伊豆大権現・走湯大権現、伊豆御社、伊豆御宮と言われ、神仏習合の大寺社で有った為に天台宗や真言宗の多大なる影響を受けて、本来の神を垂迹と称して千眼(せんげん)大菩薩、或いは千手千眼(せんげん)大菩薩と称して神隠しをして来ていた。習合の中には弁才天や毘沙門天もこれに含まれる。古くから伊豆・箱根・富士(山)の信仰がここ熱海の伊豆山で行われていた。熱海は大化改新以前には伊豆國国府としての大湊である阿多美湊であった。大化改新後、三島が国府に!

 

熱海の湯明神(湯前神社) 「護湯童子、少彦名命」式外社  官位 従四位上 元は伊豆山神社の末社
元社は熱海沖の海底に沈む。現在、水深37mの所にあり、階段他が残っている。火山の火口横にある。

来宮神社[きのみや] 静岡県熱海市西山町 旧古 比良郷鎮守社 元は伊豆山神社の末社
「大己貴命、五十猛命、日本武尊」明治になり阿豆佐和気神社と称した。
廃仏毀釈他で社名を変更しているが、来宮(くるみや)明神、別称で木の明神とも杉桙別明神とも云ったと伝わる。
伊豆山の白道明神が五十猛
として鎮座したと言われる。又、禁酒精進の話が伝わる。

来宮神社由緒書
古くから来宮大明神と称し、熱海郷の地主の神であって来宮の地に鎮座し、福の神・縁起の神として古くから信仰され祭典は、左の三柱である。
1.大已貴命は素盞嗚命の御子であって又の名を、大国主命、俗に「ダイコク様」と云われ古代出雲の神々が海、山を渡られて伊豆地方に進出されたときに、此の熱海の里が海、山に臨み、温泉に恵まれ風光明美にして生活条件の整っていることを愛し給い此処に住居を定めた時祀られたと伝えられています。

2.五十猛命は素盞嗚尊の御子であって、尊と共に朝鮮に渡られ、樹種を持ち帰り日本国土に播種した神であります。当社へは和銅三年六月にまつられました。
今から凡そ千三百年前和銅三年六月十五日に熱海の海へ漁夫が網をおろしていたところ、お木像らしい物が之に入ったので不思議に思っていたところ、ふとそこに童児が現れ我は五十猛命である。此の地に波の音の聞へない七本の楠の洞があるからそこへ私をまつれ、しからば村人は勿論当地へ入り来る者も守護するからと云うと同時に童児は地に伏してしまったので、村人一同で探し当てた所が、今の此の地であり、毎年六月十五日(新暦の七月十五日)になると海岸へ出て当時を偲ぶお祭を行う。(七月の例大祭。こがし祭)当時海辺で神に麦こがしを神に供えて、尚、国の天然記念物に指定されている此の大楠は、当社の御神木(ヒモロ木)であって、太古は此の楠へ神の霊をお招きして神をまつっていました。いわゆるヒモロ木神社である事は故宮地直一、加藤玄智両博士の著書にも述べられています。
3.日本武尊は人皇第十二代、景行天皇の御代、御東征に出陣せられ、箱根路から、此の地に軍を進められた時、住民を労り、産業を奨励した功績と、武勲を称えたゝめまつられたと伝えられる。

 今宮神社「いまみや」静岡県熱海市小嵐町 片比良・和田鎮守社

日枝神社「ひえ」静岡県熱海市稲村 稲村鎮守社 元伊豆山神社末社

あつうみ神社 海底に没す(水深26m〜28mに鎮座) 遥拝所石畳、参道石畳有り、太陽と月のモニュメント、イワクラ有り。
あつうみ郷の鎮守社 阿多美大湊【熱海の海底遺跡にて公表】 遥拝すると伊豆山の中の本宮に手を合わせる事となる。

津木華香初木姫命神社[ツキハナガハツキヒメ]
初木神社 静岡県熱海市初島 初島鎮守社 元伊豆山神社末社

津島神社

白浪之弥奈阿和命神社[シラナミノミナアワノミコト]官位 従四位上 (多明神)
多賀神社「伊弉諾尊、伊弉册尊」静岡県熱海市上多賀山子宮脇741 

下多賀神社「しもたが」静岡県熱海市下多賀

和田木神社「わだき」静岡県熱海市

足代阿治古神社「あだあじこ」静岡県熱海市網代

金村五百君和氣命神社[カナムライホキミワケノミコト]
官位 正四位上
奈胡谷神社「金村五百君別命」静岡県田方郡韮山町奈古谷字宮脇1399-1

引手力命神社[ヒキタチカラオノミコト]
官位 正四位上(瀬の明神)
引手力男神社[ひきたじからお]「手力男神」静岡県伊東市十足250 

大瀬神社[おおせ]「引手力命」鎮座する大瀬崎は柏槙の老樹が繁茂、伊豆の七不思議の一つの淡水の[神池]がある。付近は縄文中期・弥生・古墳時代の遺物が発見されている。
静岡県沼津市西浦江梨字大瀬  

金村五百村比当ス神社[イホムラヒメノミコト]
官位 従四位上
初姫神社「金村五百村当ス」静岡県田方郡函南町仁田字町屋587

阿米都瀬氣多知命神社[アメツセキタチノミコト]
官位 従四位上
左内神社「阿米都瀬氣多知命」静岡県三島市中島310-2

劔刀石床別命神社[ツルキタチイハトコワケノミコト]
官位 従四位上
剱刀石床別命神社[つるぎたちいわとこわけのみこと]
「劔刀石床別命、日本武尊」

静岡県三島市谷田293

鮑玉白珠比当ス神社[アハビタマシラタマヒメノミコト]
官位 従四位上 静岡県沼津市西浦木負字赤崎342
鮑玉白珠比当ス神社[あわびたましらたまひめみこと]
「鮑玉白珠比当ス」

 

那賀郡[ナカ] 22座 並 小 +式外社

箕勾神社[ミノワ]官位 従四位上
箕勾神社[みのわ]「祭神不詳」静岡県賀茂郡松崎町峯輪331
野本神社「大神宮、大六天」静岡県賀茂郡松崎町峯輪
461

伊志夫神社[イシフ]
官位 従四位上
伊志夫神社[いしふ]「大山祇之神」石火明神と呼ばれ、社地の北の字神田に雄石、雌石と呼ぶ大石がある。静岡県賀茂郡松崎町石部字坂下98

伊那上神社[イナカミ]
官位 従四位上
伊那上神社[いなかみ]
「積羽八重事代主命」社記では式内社中神社を称している。

静岡県賀茂郡松崎町宮内37-1

仲神社[ナカ]
官位 従四位上
仲神社「事代主命、天神(てんじん)」静岡県賀茂郡松崎町那賀64
伊那上神社 前掲

井田神社[ヰタ]
官位 従四位上
井田神社[いた]
「大國主命」大古久明神と称す。静岡県田方郡戸田村井田1

井田神社由緒

当社は延喜式神名帳(927年)伊豆国那賀郡井田神社にて、伊豆国神階帳従四位上ゐたの明神に相当すとなす。
往古、大古久明神と称し、永禄十三年(1570年)修造、慶長十二年(1607年)の上梁文に井田荘七箇村鎮守井田明神として村の産土神であり、農漁商工の守護神とし尊崇され、境内には数百年を経たうっそうたる神林があり、その面影がうかがわれる。
社傍の井立山妙田寺は往古当社の別当なるべしと伝えられる。
明治六年八月 村社に列す
境内 二百七坪
社殿 本殿 権現造 檜皮葺く、向拝に彫刻を施す
雨覆兼拝殿流造
社宝 永禄十三年(1570年)棟札

 伊那下神社[イナシモ] 官位 従四位上 静岡県賀茂郡松崎町28
伊那下神社[いなしも]「彦火火出見尊、住吉三柱大神」牛原山と近くに見える海洋の相対立する二方面からの原始信仰が形成されたとされる。

仲大歳神社[ナカオホトシ]
官位 従四位上
神明神社「天照皇大神」静岡県賀茂郡西伊豆町仁科574
伊那下神社 式内伊那下神社に掲載済み
仲神社 式内仲神社に掲載済み
伊那上神社 式内伊那上神社に掲載済み

多尓夜神社[タニヤ]
官位 従四位上
多爾夜神社[たにや]「積羽八重事代主命」静岡県賀茂郡賀茂村安良里321

多(クチヘン)胡神社[タコ] 
官位 従四位上 静岡県賀茂郡西伊豆町田子203-1
多(クチヘン)
胡神社[たご]「積羽八重事代主命、多胡若宮命」三島神の王子。

宇久須神社[ウクス]
官位 従四位上 静岡県賀茂郡賀茂村字久須1269-2
宇久須神社[うぐす]「積羽八重事代主命」

部多神社[ヘタ]
 官位 従四位上 静岡県田方郡戸田村宮脇1585
部田神社[へだ]「大國主命」境内には千数百年経った神木がうっそうとしている。

戸田神社由緒書

当社の創建は古く延喜式神名帳(972年)伊豆国那賀郡二十二座の内、部田神社にて伊豆国神階帳従四位上へだの明神に座すと云う。
古来西伊豆地方の総鎮守とし、近隣の尊崇厚く氏上社とし、農漁商工業の守護神、福の神とし、崇敬厚い。
境内には千数百年経た神木うっそうとし、南隣の妙法山蓮華寺は往古当社の別当なるべしと伝えられる。
天正二十年(1592年)九月再建、明治六年八月郷社に列す。
境内 四百二十四坪
社殿 両部造

 佐波神社2座[サハ]官位 従四位上
佐波神社「積羽八重事代主命、應神天皇」静岡県賀茂郡西伊豆町仁科1870

布刀主若玉命神社[フトヌシノワカタマノミコト]
官位 従四位上
神明神社
「天照皇大神」海名野神明社と呼ばれる。

静岡県賀茂郡西伊豆町仁科3035-1

國柱命神社[クニノミハシラノミコト] 
官位 従四位上 静岡県賀茂郡松崎町岩科南側176-3
國柱命神社[くにはしらみこと]
「國柱姫命」岩科の宮。

稻宮命神社[イナミヤノミコト]
官位 従四位上
稲宮神社「豐受比賣命」静岡県田方郡土肥町土肥2833

石倉命神社[イハクラノミコト]
官位 従四位上
浅間神社[せんげん]「岩倉姫命」静岡県田方郡土肥町小下田1556

國玉命神社[クニタマノミコト]
官位 従四位上
諸口神社[もろぐち]
「弟橘姫命」社記は国玉姫命神社に比定、またもろき姫、国玉姫、橘姫は同一神でもあろうかと問うも当社を弁天と称し、女神なること明らかなりとする。
静岡県田方郡戸田村戸田2710

國玉命神社由緒書

当社の創建由緒等詳ならざれども、増訂豆州志稿によれば、延喜式神名帳伊豆国那賀郡二十二座の内、国玉姫命神社にて伊豆国神階帳従四位上もろき姫の明神に座すとなす。
もろき姫、国玉姫、橘姫は同一神でもあろうか、現称諸口は、もろきと同語にて古来当社を弁天と称し、女神なること明らかなり。航海及漁業者の守護神とし崇敬厚く海上安全、大漁満足を祈願し、諸船この沖を通過するという。
応永八年(1402年)三月再建
明治十二年八月村社に列す
現社殿は昭和二十八年四月改築
社宝
応永八年三月吉日棟札
鰐口武蔵国吉見郡久米田郷施主等敬白
諸口大明神 応永八年霜月十五日とある(日本金石年表に見える)

國玉神社「大國主命」官位 従四位上 静岡県田方郡土肥町小土肥669
國玉命神社「國玉命」浦守神社とも呼ぶ。静岡県賀茂郡賀茂村安良里字網屋崎929


豊御玉命神社[トヨミタマノミコト]
官位 従四位上
土肥神社[どひ]「豐御玉命、應神天皇 配 大國主命、彌豆波乃賣命」静岡県田方郡土肥町土肥729-1

青玉比賣命神社[アヲタマヒメノミコト]
官位 従四位上
八幡神社「應神天皇」静岡県田方郡土肥町小土肥707

 

「神奈備にようこそ!」参考にさせて頂きました。

「熱海の海底遺跡保存会」

 

2013.03.08